「品目」にないアジやサンマにも20%の税率が
ご丁寧に細かく名前をあげ、輸入の関税がかかると「布令」で指定された一九品目の魚のなかに、沖縄で人気だった大衆魚「サンマ」は入っていなかったのだ。
それなのになぜか税はかけられ徴収されていた。その税率なんと、二〇%!
消費税が八%から一〇%にあがっただけで大騒ぎになった現代の日本のことを考えれば、この二〇%が、いかに大きな負担だったか分かろうというもの。これじゃあ、魚屋さんはたまったもんじゃない。
当時の税関職員だった島田さんは、ことの経緯を「沖縄におけるサンマ裁判」のなかで次のような趣旨で振り返っている。
一九五八(昭和三十三)年十月二十七日、高等弁務官布令十七号が公布され、従来の物品税法(立法四三号)は改正された。これを見て担当官はびっくりした。布令で「次に掲げる物品で別表に定めるものは物品税を課する」としているのに、この「別表」の生鮮魚介類のところには、以前はあったはずのアジやサンマ等の名前がなくなっていた。「どうしたのだろう」と不思議に思い、アメリカ民政府に照会した。
「あくまで例えなのでサンマも課税せよ」の一辺倒
しかし、アメリカ民政府財政部の担当官ミスター・パーキンスから返ってきた書簡(後に「パーキンス書簡」と呼ばれるようになる)には、「別表にサンマ等の掲名はされていないが、これは例示規定であるので課税できる。いや税関は課税しなければならない」と書かれていた。主税課の担当官は、「表に掲げられていないと課税できない」と強く反論したが、ミスター・パーキンスは「例示規定だから課税せよ」との一辺倒でとりつくしまもなかった。
島田さんは、どういう文言があって例示規定と解されるのか全く説明がなく、結局事実上の「課税せよ」との命令でしかないと思ったという。
琉球政府の税関職員でさえ、理不尽だと感じていた「布令十七号」。しかし、アメリカ民政府側の担当官ミスター・パーキンスの強硬な姿勢と、彼が「課税せよ」と命じた「パーキンス書簡」に押し切られるかたちで、翌一九五九(昭和三十四)年一月四日付で内政局長名により琉球税関長に対し、課税をするように通達が出されたのだ。
魚屋の女将・玉城ウシ、怒りの提訴
こうして、課税対象とされた魚として名前が挙げられていないサンマにも二〇%の物品税が課せられるようになったのだった。
この理不尽な決定に、ウチナーンチュは怒り心頭。とくにがまんにがまんを重ねてきた魚屋の玉城ウシおばぁはついに爆発。
「ええっ! どんだけ苦労してきたわけ。人の大事な金をサンマ通してこんなにクスねてからに! 今まで払ってきた税金全部返せ!」
魚屋の豪傑女将・玉城ウシは、ついに裁判に訴えた! 相手は、税金を徴収していた琉球政府。
しかし真の敵は、沖縄を統治していたアメリカ民政府ユースカーのボス、高等弁務官キャラウェイだった。(つづく)