終戦後の沖縄県は、1972年に本土復帰するまでの15年間、米国が置く「アメリカ民政府」によって統治され、沖縄県民は法律の代わりに「布令」で取り締まられていた。沖縄テレビの山里孫存ディレクターは「布令の中でも、サンマにかけられた関税をめぐって魚屋の女将が米国側を訴えた裁判は、日本への復帰運動に繋がった」という――。(第1回/全2回)
※本稿は、山里孫存『サンマデモクラシー』(イースト・プレス)の一部を再編集したものです。
「祖国復帰運動」に繋がった大事件
一九六三年、復帰前の沖縄で、魚屋の女将であるオバーが琉球政府を相手に裁判を起こした。当時の沖縄にとって輸入品だった大衆魚「サンマ」にかけられた関税が「不当な徴収であるから返金・還付せよ」と琉球政府を訴えたのだ。
この「サンマ裁判」は、琉球政府を実質的に管理し、当時の沖縄を支配していた米国の「高等弁務官」にとって都合の悪いものだった。そのため、高等弁務官は理不尽な強権を発動する……。
激動の時代だった沖縄の「復帰前」を象徴する、魚屋のオバーと米国の高等弁務官の激しいバトルがあったのだ。
琉球政府が「子会社」なら、アメリカ民政府は「本社」
アメリカの占領統治下にあった沖縄。もちろん、お金もドルを使っていた。民主主義の国・アメリカは、いちおう沖縄の自治を認め、沖縄の人々による「琉球政府」を設立。司法・行政・立法という三権分立の形を、これまたいちおうは与えていた。議員は選挙で選ばれ、立派な建物で議会運営もしていたのだ。
しかし、琉球政府の上には「アメリカ民政府」こと「ユースカー(USCAR)」という、アメリカ人によるもうひとつの政府があった。
これを分かりやすく言うと、「本社」と「子会社」。「子会社」がなにを決定しようが「本社」が認めなければ、簡単にひっくり返されてしまう構造だった。
そして、その沖縄を統治する「本社」の頂点には、絶対的なワンマン社長「高等弁務官」が君臨していた。今の県知事にあたる琉球政府の「主席」と呼ばれた行政のトップも、高等弁務官が指名していたのだ。一九五七(昭和三十二)年から一九七二(昭和四十七)年までの十五年間で、六人もの高等弁務官がかわるがわるアメリカからやってきて沖縄を支配した。
ということは? 沖縄はアメリカだったのか?