ゴルバチョフが「あの文字」の使用を認めると…

ゴルバチョフの時代にペレストロイカ政策(政治・経済の立て直し)が始まると、ウクライナでは「Ґ」を取り戻そうという運動と、ロシア正教会に併合されていたユニエイト教会(東方典礼カトリック教会)の自立を認めてほしいという運動が起こります。ユニエイト教会は独自のスタイルに変容したカトリックで、ガリツィア地方で広く信仰されています。

代わりにペレストロイカを支持してもらえると勘違いしたゴルバチョフは、これらを認めます。ゴルバチョフは言語や宗教がいかにナショナリズムと関わっているのか、理解できていなかったからです。その結果、ウクライナ西部での民族意識はさらに高まり、ソ連からの分離独立運動が広がっていきました。

そもそもガリツィア地方ではソ連の支配を望まない気運が強く、反ソ武装闘争を続けるほか、亡命してカナダに移住する人たちもたくさんいました。現在も、カナダのエドモントン周辺には数十万人のウクライナ人が住んで、ウクライナ語を常用しています。カナダで最も多く話されているのは英語で、次がフランス語ですが、3番目はウクライナ語なのです。

ゴルバチョフのペレストロイカは、外国人のソ連訪問も緩和しました。ガリツィア地方への外国人の旅行も可能になったので、カナダに住むウクライナ系の人々は母国を訪れる際に、民族主義者への資金援助も行うようになりました。そのお金が、分離独立運動をさらに盛り上げる原資となったのです。

1987年12月8日、INF条約に署名するレーガン大統領とゴルバチョフ大統領
1987年12月8日、INF条約に署名するレーガン大統領とゴルバチョフ大統領(写真=White House Photographic Office/public domain/Wikimedia Commons

前置詞を巡って、ウクライナとロシアでバトル勃発

1991年のソ連崩壊によって独立したウクライナは、公教育を通じてウクライナ語の普及に努めます。ソ連時代はほとんどロシア語を話していた首都キーウの人々もウクライナ語を使うようになり、ウクライナ人としてのアイデンティティーを高めていきました。

言葉を巡って、ロシアとウクライナの確執は続きます。ウクライナは独立後、国名が「ナ・ウクライーネ」と書かれたロシアからの外交文書を受理しなくなりました。ロシア語の「ナ」という前置詞は英語の「on」に相当し、「ヴ」が「in」に当たります。

国家に対しては「ヴ」がふさわしく、「ナ」だと地方というニュアンスが強くなるためです。逆にロシアは、ウクライナが「ヴ・ウクライーネ」と書かれた文書を送ってくると、これはロシア語ではないと言って受理しませんでした。前置詞ひとつの問題ですが、ウクライナにとっては国のプライドに関わる対立だったのです。