ロシアのウクライナ侵攻のきっかけとなった、ウクライナ東部での親ロシア派武装勢力と政府軍の内戦。元外交官で作家の佐藤優さんによると、この内戦の引き金となったのが「言語」をめぐる政策だという――。(連載第12回)
2022年5月25日、ロシア・モスクワのクレムリンで行われた国務院議長会議の議長を務めるウラジーミル・プーチン大統領。
写真=SPUTNIK/時事通信フォト
2022年5月25日、ロシア・モスクワのクレムリンで行われた国務院議長会議の議長を務めるウラジーミル・プーチン大統領。

ウクライナ語が禁止された東部、自由に使えた西部

ウクライナの歴史は複雑です。ロシアの影響を大きく受けてきた東部と、伝統的に独立志向の強い西部では、アイデンティティーも異なります。今回は言語に焦点を当てて、近代史を見てみましょう。民族としてのアイデンティティーを形成するうえで言語は非常に重要な要素のひとつなのです。

前回も述べた通り、帝政ロシアに編入された東部のドンバス地域(ドネツク州、ルガンスク州)では、19世紀にウクライナ語が禁止されました。それから現在に至るまで、ウクライナ東部に住む住民の日常生活ではロシア語が使われてきました。

一方、西部のガリツィア地方を18世紀から支配したオーストリア・ハンガリー帝国は多言語政策でしたから、ウクライナ語が自由に使われていました。

第2次世界大戦で、ウクライナは二つに割れました。ソ連からの独立を助けると約束してくれたナチスドイツと共に戦う西部の兵士が、30万人。ソ連についた東部の兵士が200万人。ウクライナ人同士が殺し合いをしたのです。

1945年、ソ連がガリツィア地方を占領します。ナチスに加担した幹部は射殺され、兵士たちは極東に移住させられたり、シベリアの強制収容所へ送られたりしました。逃げ延びた人たちは、山の中にこもって反ソ武装闘争を展開します。