自分は「見えない」ことを知った20代

味吉兆では茶事の仕事を数多く経験できました。本来の茶事では、主題(テーマ)に基づいた道具立てをします。その扱いにけた道具屋さんが、茶事に備えて道具の取り合わせなどの支度を手伝いに来られます。その関係はさまざまだと思いますが、亭主と道具屋は互いに補完しあう関係にあるのです。

バブル時代の頃、茶事の仕事を手伝っていたときに使っていたとある高麗茶碗が、うん千万は下らないという話を聞きショックを受けました。値段自体の驚きもありますが、私にはその茶碗の価値がわからなかった、自分の目にはその違いが見えなかったのです。

例えば、5000円の器と50万円の器の違いはなんであるのかがわからない。誰かが「これはええな」と言った途端によく見える。後年そういうことがなくなったとき、その理由がわかりました。人の言葉に影響されて感情の変化が起きるうちは未熟なのですね。いいものは話を聞く前からいいものなのです。

そんなことがあって、自分の目は「見えない」ことを知るのです。何も見えていないと自覚したと言っていい。24、5歳の頃でした。

結局のところ「これはいいものだ」と決める人がいます。ですから、「見えるか/見えないか」の基準は、よいものだと「わかったもんの勝ちや」と思いました。

見えないうちは話にならない。見えるようになりたい。で、どうすれば見えるようになるかといえば、それは、ひたすらいいものを見るしかない。とにかく、最高のものを見るという経験が必要です。

とにかく一級品を見続けた

「そのためには買わんとあかん」「失敗せんとあかん」と、教えてくれる人がありました。また、「自分は嫌いだけど、これはいいものですね」「これはあまり良くないものですが、自分は好きだ」という「好きなもの」と、実際に「善いもの」とを、区別して見ないといけないこともわかってきました。とにかくいいものを見ないといけない。しかも、雑多なものよりも、一級品のいいものを見ないといけません。

それからというもの、時間があれば、大阪中之島の東洋陶磁美術館、天王寺の大阪市立美術館、京都の国立博物館などに通い始めました。美術館の会員証を持って、少しでも時間があれば、とにかく見る。

当時は今よりも美術館はいていました。今では美術館も企画展が多くなりましたが、当時は、たとえば国立博物館には本当にたくさんのものが常設で並んでいたのです。美術館に通うようになって一年経ったとき、なんとなくいいなと感じるものが増え、一年前は見えていなかった美に気づく。それからまた一年して、一年前はわかっていなかったと気づく、その繰り返しです。

京都や大阪の画廊や道具屋にも興味を持つようになって通いました。30年以上も前のことです。ただの若いもんでも、どこに行っても親切にいろいろなことを教えてくださるものです。京都の「鉄斎堂」さん、古代裂の「ちんぎれや」さんなどは、今も親しみを感じています。

高台寺さんは一般に開放されていませんでしたが、外から覗いていたら庵主さんが声をかけてくださって、招き入れてくれました。ねね(秀吉の正妻、高台寺はこの北政所の菩提寺)のお墓の扉の裏にあるまき絵のことやらお墓の上のことやら全部説明してくれはってね。京都は若い人にとても親切にしてくれはるとこで、感謝しています。

やがて好き=良いモノとなるように

初めは、見えるようになりたいと思う気持ちでしたが、だんだん見ることが楽しくなったと思います。そんな話を糸井重里さんと対談でしていたら「で、見えるようになったんですか?」と、聞かれました。咄嗟に「自分なりに楽しめるようになった」と答えましたが、不十分ですね。

土井善晴『一汁一菜でよいと至るまで』(新潮新書)
土井善晴『一汁一菜でよいと至るまで』(新潮新書)

経験を積めば見えるようになるのは間違いないようです。高麗茶碗でも、見ているうちに高麗茶碗の美の様式をつかめるようになる。それが普遍的価値の共有です。

目でしっかり見たものは心地よさとして体に残り、それがどんなものかを人から教わり、話すことで検証できます。そうした経験と学びの繰り返しをしていると、体の中に美の枠組みができてくるのです。そうした物の美しさが価値として評価されているものは、お金では評価されていなくとも良いとわかる。

そして、やがて好きなものと、良いものが一致してくるようにも思います。一瞬でわかるというものもありますが、その時々で自分自身が冷静でない時もあるので、しばらくそばに置いておく、しばらく見ないでしばらくして観る、ことでわかるものもあると思います。良いものは秩序を促すのです。