高価なものとそうでないものを見分けられる人は、何が違うのか。料理研究家の土井善晴さんは大阪の料亭・味吉兆(編注:吉は土に口)で働いていた20代の頃、5000円の器と50万円の器の違いも分からないほど自分は未熟だったそう。しかし、「どんな人でも『いいもの』を見分けられる方法はある」という――。

※本稿は、土井善晴『一汁一菜でよいと至るまで』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

器を持つ手
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懐石料理には食文化の本質が残っている

「懐石料理」は、その元に当たる「茶の湯」をたしなむとさらに楽しめるものです。茶の湯は敷居が高くて、当初は私にも近寄りがたさがありました。

茶は、茶をいかに美味おいしく味わうかを目的としますが、ご縁のある人々が一つの席に集まり、季節の移ろいを認め、道具の取り合わせの美を共有することで、深く交わり、浮かび上がる情緒を味わう場なのです。むしろ、それを難しいことにして遠ざけてはもったいない。

何かを学び覚える習得以上に、ものの考え方や日本的なものの捉え方というものをつかむためと考えるとよいかもしれません。

古来暮らしにあったよきものを思い出し、心に置くことができるのはとても豊かなことだと思います。それは役に立つものです。

懐石料理は、今では高級料理屋でしか食べられないものになっていますが、家庭の手料理のもてなしを原点とする茶の湯に由来する伝統として、食文化の本質が残っている場でもあるのです。

バラバラの長さのツクシでよい

湯木(編註:貞一、「吉兆」の創業者)が盛りつけを終えて、整った料理を一瞬じっと見ているかと思ったら、上からぐしゃっと料理を押さえ込んで崩し、「よしできた」と言った。そんなエピソードを先輩に聞きました。

味吉兆(編註:「吉兆」の暖簾分け)のご主人の盛りつけは、温めた大鉢に鍋をひっくり返して入れて、少し手を入れて直す程度で完成することもありました。

春の向こうづけを盛るために、数本の土筆つくしをあしらうにも、長さを切りそろえてはいけません。自然の土筆は短いもの長いものがあるでしょう。

銘々の鉢に、炊き上げた芋、たこ、南京を盛りこむにも、一人分ずつ数を読んできちんと盛ってはいけません、大まかにつかんで盛り、少し手直しする程度にとどめます。包丁できれいに豆腐をさいの目に切りそろえるよりも、ランダムにお玉を使ってすくい取ります。

この違いは何かといえば、それは「お茶があるか」「お茶がないか」です。

茶とは、茶の湯のことで、茶の美意識で判断するということです。茶の美意識とは言っても、善と偽善を判定しているように私は思います。人間のすることはほどほどにして、自然を信じる態度に現れます。