「お茶」とは自然を尊ぶ心

湯木貞一の料理のよりどころは、茶事の懐石です。茶とは、自然に任せられるものは任せるべく、あからさまな作為や生々しさを嫌います。細やかな自然の移ろいをよく見て、認め、もの喜びすることです。人のためと思ってやった行為といえども、その見返りを願っては偽善となるでしょう。そうした偽善心は、作為として料理に残るのです。普遍性のない人間の些末さまつな工夫なんて、なにもおもしろくないのです。

新しい試みでも場に対する工夫にしても、そこに根本である「茶」があるかないかを問題とします。湯木や中谷(編註:文雄、「味吉兆」初代)は良いものを「お茶がある」、ひと目見てダメなものを「お茶がない」と一瞬で判定しました。自然な振る舞いやさりげなさを私たちは好むようです。わざとらしさをみると、臭い芝居となるのです。

ですから「お茶がある」とは自然を尊ぶことに尽きる。自然には同じものなどなに一つありません。いつも変化し、それぞれが違い、それぞれに美がある。一つ一つをそろえる努力よりも、一つ一つの美を優先するということですね。茶があるかないかという基準を持っていると、良い悪いがおのずと見えてきて分かる(判断できる)ようになる。「お茶がある」とは、他の言葉では代替しがたい、日本らしい情緒がある言葉です。

日本庭園
写真=iStock.com/paulacobleigh
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いちいち見とれてしまう料理

味吉兆で、お料理が盛り込まれた器がわきとり(盆)に乗せて運ばれていく様子を眺めて、えらいきれいなものやと感じ入ったものです。慣れるまでは、いちいち見とれていました。吉兆の料理は、月々の献立に日本の行事や故事をひとつずつ取り込み、趣向を凝らすので、季節の移ろいとともに景色が変わります。

趣向とは、季節の節目にあるさまざまな祭りごとや故事を、料理に織り込んで表現することです。例えば、「月に見立てた金属のプレートがある。それを盆に乗せ、ススキやハギを飾りにして、料理の一品を置く。盆の上に秋の小宇宙ができあがる」(東京吉兆ホームページ「白吉兆 湯木貞一の想い語り」より)。

このように四季の風情をお料理にするのです。

そのために季節や料理の趣向に応じて、松葉、椿、ゆずり葉、菖蒲しょうぶ、青もみじ、梶の葉、朝顔つる、柿の葉、笹、青竹、氷(塊・かき氷)、蓮の葉、黒文字、ほおずき、赤芽柏、柿の照り葉、菊花、柿がま、柚がま、川石、大アワビの殻、炭など、自然のものを季節に応じて用意するのは、若い料理人の役目でした。

新古の陶磁器や漆器はもちろん、かわらけ、クリスタルガラス、銀器、銅網、青交趾こうちなど際立つものを見立てて生かし、物と物の関係性で調和の美を潔く表現し、自然を切り取って魅せる。そのように湯木がつくりあげた趣向を施した日本料理は、それまでだれも見たことがない料理となりました。

日本一美しい盛り付けとは

我が家に『吉兆料理花伝』という、奈良の写真家、入江泰吉が吉兆の茶懐石を撮りおろし、グラフィックデザイナー林忠が装丁した豪華な本があります。今見ても新鮮でページをひらけば身が引き締まります。

繊細で華やかな日本らしい料理写真を折々に眺めると、汚れてしまった自分の目が洗われるかのようです。その本には湯木の言葉通りの「世界の名物 日本料理」が表現されているのです。

また、日本料理の美の表現を倣った一冊があります。京都の「辻留」先代主人、辻嘉一(1907〜1988)の見事な『盛付秘伝』(柴田書店、1982年)です。私自身は実際に辻嘉一さんの料理を見たことがありませんが、この本の料理写真を見ると、奇をてらったことはせず、日本らしい季節の食材を取り合わせる技は見事です。

なにしろ、能楽のシテ、ワキといった言葉を用いて、その関係を引用しながら、盛り付けの情緒を一つ一つ解説し、綿密に言語化する話法は他にないでしょう。しかも美の作り方が絶妙で、作為を感じさせません。

真っ直ぐに並べるにも、真っ直ぐではない。平行にするにも平行ではない。季節感を踏まえ、寸法、包丁、角度、調和性、形にまったく隙がない。その調理の技術は、意図した料理があるために成立するのです。その方法論を超えて美しいのが辻嘉一の料理です。論より証拠、機会があれば、ぜひご覧いただきたいと思います。

これを見る限り、盛り付け日本一でしょう。和食の場合、美しさは間違いなくお料理の質と対応するものですから、味わうまでもなく美味であることは疑いありません。

湯木貞一といい辻嘉一といい、この時代に名をせた料理人の料理には顔がありました。料理をみれば、だれの料理かがわかったということです。それは独自の料理哲学という裏付けを持って、初めて実現したことだと思います。