結婚問題が混迷したのは「恋愛の不自由」のせい?

江森氏は、この結婚問題が混迷を深めてしまった背景に、眞子さんの恋愛の自由が制限されていることが根差しているのではないかと見ている。

外出すれば国民の目やマスコミに注目される。どこへ行くにも警護がつく。こうした環境では、彼女が異性と交際を楽しんだりするチャンスはかなり限定されたものにならざるを得ない。

もし彼女に一般女性のような恋愛の自由が認められていたら、心に余裕ができ、親の意見に素直に耳を傾けていたのではないかというのである。

そういう一面は確かにあるだろうが、それが、この結婚問題をこじらせた大きな要因だとは、私は考えていない。美智子上皇后、雅子皇后や秋篠宮紀子妃のように、一般人から皇室へ入った人は、四六時中衆人環視の中にいる生活に慣れるのは大変だったと思う。

だが、皇室に生まれた人たちは、われわれが思っているほど「自由がない」とは考えないのではないか。たしかに、学校の友達と遊べない、同年代の異性との出会いや付き合う機会が少ないという“不満”があるのは分かる。

江森氏は、「彼女を取り巻く環境や皇室制度そのものが、もはや今の時代にそぐわなくなっているのではないか」と問題提起している。

憲法で定められた「象徴天皇制」が時代と共に変化し、いまの時代にそぐわなくなっているのではないかと、私も思っている。

サンデー毎日(5月22日号)で元毎日新聞の皇室記者で、成城大学の森暢平教授もこう書いている。

「開かれた皇室」を閉ざそうとする宮内庁にも問題がある

「戦前の天皇制のあり方の反省のうえに成り立つ日本国憲法は、皇室を封じ込める機能を果たしてきた。しかし今、憲法は天皇・皇族の人権を侵害するものとなっている。(中略)眞子さま問題が明らかにしたのは、憲法の矛盾だ。天皇・皇族は、生身の人間である。恋もすれば、意見もある。その自由をどう考えるのかという議論が、今、必要ではないか」

いま一度、ここで立ち止まって、象徴天皇制とはどうあるべきなのか、皇室と共にわれわれ国民も原点に立ち返って考え、議論してみる必要があるというのは、その通りである。

さらなる問題は、宮内庁が、美智子上皇后が努力してきた「開かれた皇室」を、閉ざそうとしていることではないかと、私は考えている。

門戸を閉ざし、国民との距離を離そうとするから、国民は好奇心を掻き立てられ、彼ら彼女たちの一挙手一投足に注目し、週刊誌報道まで貪り読むのだ。