部屋の中の象
ところが思春期に入ると、佐田さんは兄の存在が煙たくてしかたなくなっていく。
ファミリーレストランやスーパーなどで兄が大声や奇声を上げる場に自分もいるときや、兄が家の中で大声を出したり、踊ったりしている様子を目にするたびに、佐田さんは自身の中に冷たい感情が流れるのを感じる。
「両親は、兄が他の人に触ったり、物を壊したりしたときは謝罪していましたが、兄の存在を恥じている様子は少しも見られませんでした。そんな両親に対して私は、『恥ずかしくないのか?』『もっとしっかり謝ったほうがいいのではないか?』『外出させないほうがいいのではないか?』と思っていました」
それでも佐田さんはずっと、何とも思っていないフリをし続けた。
「本当は今すぐ逃げ出したいのに、その場では平然と、家族としていなくてはならないこと、そしてその苦悩を誰にも話せなかったことがつらかったです」
佐田さんは、両親が大事にしている兄への受容的な雰囲気や、外出時の平然とした立ち振る舞いを壊すようで、両親には絶対に本心や悩みを言うことはできなかった。そして両親も、自分たちの気持ちや考えを佐田さんに話すことは、これまで一度もなかった。
「DV家庭での児童虐待の問題などを巡り、“the elephant in the room”という言葉を耳にしますが、まさにこれに当てはまるような気がします」
“the elephant in the room”という慣用句の意味は、“部屋の中に象のような巨大なものがいるにもかかわらず、そのことをあえて話題にしない、見て見ぬふりをする”ということ。
象のように大きな問題を抱えていて、家の中の誰もが悩んでいるはずなのに、家族の誰も口に出さない状況。まさに家庭のタブーだ。
佐田さんは本心を誰にも、友だちにも、先生にも、両親にも言えないまま、成長していく。
この先、佐田さんは、どのようにしてこのタブーを破ったのだろうか。どのように家庭という密室から抜け出したのだろうか(以下、後編へ)。