再発防止に活かす以前に、その記録すら残されていなかった

しかし制度を知らずに遺族が申請しなかったり、もともと遺族がいなかったりした場合は、どんなに災害の影響を多大に受けた死だとしても、統計上、災害関連死には数えられない。仮に申請したとしても、審査会の不透明な結論に納得できず、行政を相手に訴訟に踏み切った遺族もいる。

昨年、毎日新聞が、3.11で被災したいくつかの自治体で審査委員会の議事録がすでに破棄されたと報じた。事例を検証し、防災措置や支援政策に活かす以前に、その記録すらも残されていなかったのである。

阪神・淡路大震災以降の自然災害では、直接死者が約2万人であるのに対し、災害関連死者は5000人以上にのぼる(※)。災害の性質、被災した人の生活環境や取り巻く社会状況、職業、年齢、資産、健康状態、家族構成などで、災害後の生き方も、死に方も変わっていく。5000の災害関連死があれば、5000通りの死へのプロセスがあり、それぞれが必要としたサポートがあったはずだ。

※筆者註:阪神・淡路大震災919人(2016年11月1日兵庫県)、新潟県中越地震52人(2009年10月27日内閣府)、東日本大震災3786人(2022年3月10日NHK調べ)、熊本地震218人(2022年3月11日熊本県)のほか、豪雨災害などの都道府県の災害関連死者数を合算した。

自然災害を防ぐのは、不可能だ。だとしたら、これから起こる災害で、生き残る術を探る必要がある。災害関連死こそが、その道標となる可能性を秘めている。にもかかわらず、長い間、災害関連死には定義すらなく、もちろん事例収集や検証も、次の災害の備えとする取り組みもなされなかった。かつての被災地には、いまだ野ざらしのまま教訓がうち捨てられていたのである。災害関連死をめぐる現実を知ったいま、5000という災害関連死の数は、氷山の一角に過ぎないと断言できる。

どのような姿勢で「最期の声」に向き合っていくか

コロナ禍を自然災害と考えれば、私たち国民すべてが被災者となった。自助の限界を痛感した人もたくさんいたに違いない。また、感染拡大にともない、既往症や基礎疾患を持つ人、高齢者が重症化するリスクがあると周知された。リスクを持つからこそ、疾患や障害、その人が置かれた立場に対する理解と、個別支援や公助が必要になる。自然災害の現場こそ、まさにそうだ。

阪神・淡路大震災以降、日本列島は地震が多発する「地震活動期」に入ったと考えられている。東日本大震災、熊本地震、北海道胆振地震……。被害は日本列島全体におよんだ。

元号が令和に変わっても、揺れ続ける。今年3月16日に起きた福島県沖が震源の最大震度6強は、ふだん忘れがちな自然災害の恐怖を蘇らせた。首都直下地震と南海トラフ地震も危惧される。豪雨災害も頻発する。

いつ誰が被災してもおかしくない時代に、どのような姿勢で「最期の声」に向き合っていくか。我々ひとりひとりが、そして、社会全体が試されているのではないか。

災害関連死とは、過去の被災者と、未来に起きるであろう災害を生き抜こうとする我々とをつなぐ遺言のようにも思えるのである。

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