ところがちょうど同じ頃、肉体には逆の現象がおとずれる。何かというと、言わずもがな、体力の衰えという厳しい生物学的現実との直面だ。無論、鍛錬をつづければ四十を越えても或る程度の現状維持は可能であろうが、常識的に考えて、二十代や三十代のときのように、やればやるほどぐんぐん強くなってゆく、ということはちょっと考えにくい。

それに問題はむしろ体力より気力の低下だろう。気力とは、すなわち生き物としての勢い、といいかえてもよい。

二十代や三十代は生命体としての内燃機関の性能が高く、摂取したエネルギーを即座に行動にかえるだけの燃焼力がある。なので何か計画を思いついたら、その衝動につきうごかされるように、すぐに行動に取りかかることができる。むしろ頭では落ちつけ落ちつけとなだめても、身体のほうがもういてもたってもいられなくなって、爆発しそうな勢いでつぎの日には飛び出してしまう、という状態だ。

40代が直面する悲しい現実

だが四十を過ぎると、どうしたって肉体の燃焼力は低下し、何か行動にとりかかるとしても、自分の尻に鞭をうち、叱咤しった激励して自らを鼓舞しなければ実行できない。生命体としての総合的なパワー、すなわち生命力が下降し、なんか面倒くさいなぁと腰が重くなりはじめるわけだ。それが気力の低下とよばれるものである。

暗い部屋の窓際に立つ男性
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横綱千代の富士が引退会見の席でのこした名台詞、「体力の限界……気力もなくなり、引退することになりました」とはこのような意味だったと解することができる。正確には千代の富士が引退したのは三十五歳だが、相撲とちがって冒険のほうは瞬発系ではなく持久系の運動なので、行為者としての寿命はもう少し延長され、四十三歳ぐらいでそれがくると考えられるのである。

このように四十になると、人の世界は経験によって拡大膨張し、その大きくなった世界をよりどころに様々な局面を想像できるようになり、冒険家にはなんでもできるという自信がうまれる。つまり経験値のカーブは上昇線をえがく。その一方で、肉体は衰えはじめ、体力や勢いや気力などが低下し、個体としての生命力は下降線をしめす。