そして「入院は、いやです」と眉を寄せた

千場医師は自身のスマホを取り出し、その画面を横たわる女性の目前に差し出した。

「これ見えますか。僕が言ったことがここに表示されますからね」と千場医師が説明する。耳が聞こえづらい患者の時に使うらしい。女性は目を開けて「はい」とうなずいた。

「おなかが痛い?」——<おなかがいたい?>と表示される。
「痛くないです」

しっかりした口調だった。続けざまの質問にも、すぐに文面を読み取って答えていく。

<いま困っていること、つらいことはなんですか?>——「何となく気持ちが悪い」
<気持ちが悪いのは食べた後?>——「ずっと」
<検査をする気はありますか?>——「はい」
<たとえば入院して検査をしたりとか>

その文字が表示された瞬間、女性が「えっ」と驚いた声を上げる。

そして「入院は、いやです」と眉を寄せる。

「最後の最後まで、猫と一緒にいたい」

千場医師は穏やかな笑みを浮かべ、今度は変化球の質問を投げかける。

<いま一番、世の中で大切なものは? と聞かれたら、なんて答えますか>

女性は「うーん」としばらく考えた後、「猫です」と言った。散らかった室内の片隅にでっぷりと太った猫がいて、こちらをじっと見つめている。以前の訪問診療中にこの猫が近隣の山から野鳥をつかまえて室内に運んできたそうだ。その際、千場医師が鳥を逃すために奮闘したという。その話を聞いていて、実際に目にすると、確かに“闘いに強そうな猫”だと感じた。女性が猫を残して老人ホームなどの施設に入っても、十分生き延びられそうではある。

千場医師は笑っていた顔を引き締めると、続けてこう聞く。

<最後の最後、おうちにいたいという人と、施設がいいっていう人がいます。どちらですか?>

女性は千場医師の顔を見上げて「うちにいたい」と即答する。「最後の最後まで?」となおも聞くと、女性は何度もうなずく。

<誰と一緒に?>——「猫といたい」
<猫のほうがご主人より大事?>——「大事です」

夫は「はー」と大きなため息をつく。そして「いや、びっくりしないですよ……」と寂しそうに笑った。