「女性を強引にリードしながら、足元にふかふかのカーペットを広げてくれる強さと優しさを兼ね備えた人物を男に求めてはいけない。そんな重圧、男には耐えられない。(中略)それでなくとも、子どもの頃から立派な男になることを押しつけられるのに。期待が大きすぎるんだよ」(前掲書より)
そう言って、女性たちに男性としての悲鳴を伝えるのだった。
「社会のまなざし」という拘束
クリスチャンが子どもの頃、周りの大人たちは彼に対してことあるごとに「立派な男」という言葉を口にした。振り返れば、彼のこれまでの人生は「立派な男になる」ことがすべてだった。
周りの“女の子”たちが“女性”に変わり始めると、ますます彼は男らしさを強調するようになり、社会に認められるためだけに男らしく振る舞った。
でも、それが自分の生きづらさの原因になっていることに彼はこれまで気づかなかった。ところが“クリスチアーネ”に変身し、社会のまなざし=拘束から解放されることで、「ありのままの自分=ちっとも男らしくない私」と向き合うことができた。彼は1年間の女装を経て、自分と正面から向き合い、「自分らしく生きる勇気」を手に入れたのだ。
もっとも、これは妻もいる1人の男性が「女装して1年を過ごす」という極端なケースである。しかし彼の社会実験は、外見や性差や性役割、普通という概念のバカバカしさと、他者のまなざしに拘束されることの不幸を教えてくれている。
逆説的に言えば、ありのままの自分に気づき、受け入れ、上手にあきらめることこそ、「幸せ」への第一歩になる。
人間の欲求はモザイク状
心理学者アブラハム・マズローは、人が持つ欲求を、「生理的欲求」「安全の欲求」「所属と愛の欲求」「承認の欲求」「自己実現の欲求」の5つに分類し、階層で示した。有名な欲求の階層の理論だ。
一般的には、これらの欲求は五段階のピラミッド型で示されるため、1つの欲求が満たされて初めて次の欲求が生じ、欲望の階段を順次上っていくと理解されることがある。しかし、実は有名なピラミッドの図はマズローによるものではない。第三者が、マズローの階層理論をイメージして作ったものだ。
マズローは単に、人間の持つ基本的な欲求に対し、相対的な優先度を基準に階層を構成したにすぎない。つまり、下位の欲求が100%満たされなければ、次の上位欲求が生じないというわけではないのだ。