仮設住宅で起こった「孤独死」

――劣悪な避難所での体調の悪化、仮設住宅での孤立、支援者の心身の健康問題……。3.11でも注目された問題が阪神・淡路大震災でもすでに起きていたんですね。

当時は、災害関連死という概念もなかったでしょう。だから取材を通して、災害がもたらした問題をひとつひとつ手探りで知っていく、という感じでしたね。災害では助かったけど、時間の経過とともに疲弊して命を落としてしまう。阪神・淡路大震災を通して、そうした現実を知っていたからこそ、3.11では「孤独死」の問題に注意を払えたのかもしれません。

3.11直後、東北に通うなかで、岩手県の沿岸部にある自治体の職員と知り会いました。郷土史に精通する彼は、町に大きな被害をもたらした明治三陸津波と昭和三陸津波を研究していました。しかし津波で、書きかけの原稿も、資料もすべて流され、仮設住宅に入居した。生きる支えだった郷土史の本を書く夢も絶ちきられ、酒に溺れた。心配した保健師や支援員が訪ねても受け入れなかったそうです。そして訃報が届いたのが、2014年の大晦日。59歳の「孤独死」でした。

ただ「孤独死」という言葉が、彼の人生――いえ、災害後に孤立して亡くなった一人一人の人生を覆い隠してしまうように感じました。彼がどんな人生を歩んで、なぜ、ひとりで逝かなくてはならなかったのか、遺族や関係者に話を聞いて雑誌などに発表したんです。

取材をしてみると、男性は自らの尊厳を守るために孤立を選択した、あるいは津波で失われた自分の町に殉じたようにも思えました。しかし同時に、遺された人たちには、割り切れない無念の思いが残る。そこは「孤独死」も災害関連死も同じなのかもしれませんね。

ノンフィクションライターの松本 創さん
撮影=宇佐美雅浩
ノンフィクションライターの松本創さん

災害や事故で生きる気力を失い孤立する人

――災害関連死は適切な支援やサポートがあれば、減らすことができると言われています。その分、なぜ助けてあげられなかったのか、自分がもっとがんばって支えていればいまも元気だったのではないか、と自責の念にさいなまれる遺族は少なくありません。

その意味でも、孤立した人への支援やサポートは非常に難しい。絶望の末にもうかかわらないでほしいと考える人もいる。「孤独死」した男性の精神状態を想像すると重なるのが、福知山線脱線事故で妻と妹を亡くした男性の事故直後の心境です。

「火山の噴火口に取り残された気分だった」

そんな心境だったと彼は振り返っています。噴火口にひとりぽつんと立つ自分を何百メートルも離れた火口の周りからたくさんの人がのぞき込んでいる。手を伸ばしても届く距離ではないし、叫んでも声が届かない、と。

そうしたトラウマをめぐる被害者、支援者や専門家、傍観者などの位置と関係性は「環状島」というモデルで説明されたりするのですが、孤絶状態に陥り、生きる気力を失った人に手を差し伸べるのは簡単ではありません。加えて、日本の社会風土には自己責任論や「我慢の美徳」が深く根付いているでしょう。

新聞社時代、新潟中越地震の発生時に、新潟出身の先輩が書いたコラムが印象に残っています。避難所の環境や食事がいかに不十分でも、誰も不満を言わない。県が無料で用意した旅館も、利用は一割に満たない。「文句言っちゃなんねえ」というのが染みついている、と。みんながつらいんだからお互いさま、大変な時にぜいたくは言えない……。避難所の環境改善が遅れる原因や、受けるべき支援を遠慮する背景には、そうしたマインドもあるように思います。