先生という言葉を禁止しよう
故・青木昌彦スタンフォード大学名誉教授は、日本の会社組織とその技術形成を情報とゲーム論で解明した世界的学者であるが、スタンフォード大学から経済産業省の経済産業研究所所長に就任していた。そこで彼が行った改革は2つある。
第一に、新しい研究を議論するセミナーを昼食時に行い、ランチを袋に入れて持ち寄りつつ、食べながら約1時間の間に議論するという「ブラウンバッグ・セミナー」(昼食セミナー)の導入である。
議論というのは、必ずしも時間が長ければいいというものではない。自分の研究の本質を、短い時間で、短い文章で説明できない研究者は、自分の研究をよく理解していないことが多いからだ。忙しい人たちがお昼時に集まって、学問領域の壁を取り去った形で行われるブラウンバッグ・セミナーの導入は、そういう意味でいい刺激を与えた。
本稿で強調したいのが、第二の改革である。青木氏は、研究会でお互いに「先生、先生と呼び合うのをやめよう」と提案したのである。聞くところでは、これは1949年にノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹氏を生んだ“京大物理”の伝統でもあるという(青木氏は15年ほど京大で教鞭をとっていた)。
アメリカでは学部生や大学院生の立場では、さすがに先生を「プロフェッサー・アオキ」などと呼ぶが、博士号を取得して助教授になると、その日から「マサヒコ」「コーイチ」などと、ファーストネームで指導教官を呼ぶようになる。青木氏の第二の改革は、アメリカでは当たり前のことだった。
医師が「先生(ドクター)」と呼ばれるのは世界でも当然であるが、日本では、医師以外でもあまりに多くの人々が「先生」と呼ばれる。ただ年長であるがゆえに重んじられる儒教的な習慣が残っている。
学者にもいろいろいて、学問への貢献度は人によって違う。それを一括して「先生」と呼んで、お互いに安心し合っていては、学問に新機軸は生まれない。真理に対しては、若い学生も年寄りの学者も、対等に追究する資格があるのである。