食品着色が規制されていった背景
ヨーロッパ諸国や日本に比べ、アメリカの全国規制は遅く、20世紀に入ってからであった。19世紀末以降、すでに議会や政府内で大きな問題となってはいたものの、企業や政治家らの利害が絡み合う中でその制定は遅れ、ようやく1906年になって連邦規制である純正食品薬品法が成立した。
同法は、当時、有害物質の使用が特に問題視されていた菓子類について、着色料を含む有害物質の使用を禁止した。さらに、着色自体は禁止しなかったものの、パッケージやラベルに着色料など添加物を表示するよう義務づけた。
同法は、アメリカ農務省内に設けられていた化学局の管轄で、同局の化学者らが着色料の有害性を調べたり、基準を設けるなどしていた。中でも当時の局長ハービー・W・ワイリーは、純正食品薬品法成立の立役者でもある(同法は「ワイリー法」と呼ばれることもある)。ワイリーは、自身は着色料に関する知識を十分に有していなかったこともあり、有害性や規制の基準を定めるため、民間の化学メーカーで働いていたバーンハード・C・ヘスをコンサルタントとして迎え入れた。
このワイリーとヘスの連携の中でアメリカにおける食品着色規制の礎が築かれ発展していったのである。
1869年にミシガン州で生まれたヘスは、シカゴ大学で化学の博士号を取得、化学局に勤める前には、ドイツの一大化学メーカーであるバーディッシュ・アニリン・ウント・ソーダ工業会社(バスフ)で長らく化学者として働いていた。そしてワイリーのもとで働くようになった後も、民間と政府とを結ぶ重要な橋渡しとしての役割を担っていた。
食品産業界に不利益が出ないように規制は進んだ
まずヘスとワイリーが取り組んだのは、無害の着色料を明確にし、その使用を食品メーカーに推奨することで健康被害を抑えることだった。純正食品薬品法制定の翌年、着色料規制の細かな取り決めをまとめた「食品検査決定七六」を発表し、7種類の合成着色料を「認可着色料」に指定した他、着色料製造に関して厳しい精製基準を設けた。
認可着色料とは、政府がその安全性について問題がないと判断した着色料のことである。ヘスが選んだ7種類は、不純物を除去し一定の精製基準を満たせば、他の着色料に比べて安全性が高いと考えられていた。だが当時は、認可着色料以外の使用が禁止されていたわけではなく、食品メーカーは、表示義務さえ守れば、他の着色料を使用することが可能だった。後述するように、1938年の法改正でようやく着色料を使用する際には認可着色料の使用が義務づけられることとなった。
さらにこれら7つの認可着色料は、食品メーカーや化学メーカーの間で比較的広く使用されていた着色料でもあった。また、これらの着色料は、黄色、オレンジ、青、緑、赤、真紅、チェリーレッドの7色で、複数の色を混ぜ合わせることで、事実上無限に近い色を作り出すこともできた。つまり、着色料使用をはじめ食品規制は、産業界に絶対的不利益にはならないよう考慮された上で進められてきたといえる。