大戦後に新しい食品が食卓に並ぶようになった

連邦食品・医薬品・化粧品法は、長らくアメリカの食品規制・安全基準として用いられていたが、1950年代頃よりその改正の必要性が指摘されるようになった。その理由の一つに、第二次世界大戦後、食品産業、特に食品加工業が急速に発展したことが挙げられる。乾燥加工技術や冷凍技術の進展や様々な合成化合物の開発によって、新しい食品が食卓に並ぶようになったのだ。

例えば、卵と水を混ぜるだけでケーキを作ることができるケーキミックスや、カラフルなゼラチンデザートの「ジェロー」、一つの箱の中に一食分のメイン、サイドディッシュ、デザートを詰めた冷凍食品「TVディナー」などである。斬新さと便利さを兼ね備えたこれらの食品は、第二次世界大戦後のアメリカで豊かな社会の象徴でもあった。

これら加工食品は、着色料や香料をはじめ多くの合成添加物を含んでおり、食品業界では、化学物質の使用が急増した。アメリカ食文化史家ハーヴェイ・レヴェンスタインによれば、1950年代にアメリカ食品化学産業は「黄金時代」を迎えたのである。

食品添加物の使用拡大に伴って、化学物質による健康被害が拡大した。これら添加物は、連邦食品・医薬品・化粧品法の規制対象だったものもあったが、有害性に関する知見は未だ不十分で、同法で使用が許可されていた添加物が後に有害だとわかったものなどもある。

赤と緑に着色されたポップコーンで健康被害

例えば、1950年秋、オレンジ色のハロウィンキャンディーを食べた子供たちが下痢や腹痛を訴える事故が起きた。さらに1955年には赤と緑に着色されたポップコーンを食べた200人近い人々が健康に何らかの異常をきたし大きなニュースとなった。後にこれらの健康被害の原因が、使用されていた着色料だったことがわかったのだが、それらは、1938年法で使用が認められていたものであった。これにより同法の改正と有害性基準の見直しが急務となったのである。

カラフルなポップコーン
写真=iStock.com/AnVyChicago
※写真はイメージです

これまで着色料の有害性に関する検査は、着色料メーカーが連邦機関の一つである農務省に個々の着色料に関するデータを提出し、同省の化学者が行っていた。このため政府の負担が大きく、検査に時間がかかると同時に、審査数の多さやその煩雑さから毒性を十分に判定することが困難であった。

1950年代の健康被害をきっかけに、連邦政府は、1958年に食品添加物改正法、その2年後には着色料に特化した着色料改正法を制定し、食品規制強化に乗り出した。この着色料改正法では、当時認可されていた合成着色料の全てについて、毒性を再検査することが定められた。さらに、有毒性検査は、連邦政府ではなく着色料メーカーが行うことが義務づけられ、安全性の再確認と新たな検査体制の確立を図ったのである。