論語でなく聖書だったら「てんで守れなかった」
栄一の「一友人」は、秀雄によれば「芸者もいたし、家に使っている女中もいた。現に『一友人』の子は一高のとき私と同級になり、現在もなお半分他人のような、半分兄弟のような交際をつづけている」という。
明治25(1892)年、秀雄が生まれる4カ月ほど前に、辰雄という男児が生まれている。実業家の星野錫の養子になった辰雄が、秀雄がいう同級生と思われる。
夫の「婦人ぐるい」がここまで及べば、妻はさぞかし苦労が絶えなかったことだろう。兼子は晩年、子供たちによくこう話していたという。
「大人(栄一のこと)も論語とはうまいものを見つけなさったよ。あれが聖書だったら、てんで守れっこないものね」。
たしかに、聖書はモーゼの十戒に「汝、姦淫するなかれ」と書かれているが、論語は性道徳に関してほとんど触れていないのだ。
古い時代の倫理感覚があったからこそ
「英雄色を好む」を地で行った栄一だが、その周囲にも色を好んだ男が多かった。伊藤博文の女遊びは栄一の比ではなかったと伝わるし、栄一が若い日々に仕え、生涯敬慕した徳川慶喜は10男11女をもうけ、ほとんどが側室から生まれている。
では、栄一は何人の子をもうけたのか。定かではないが、少なくとも20人程度はいたといわれる。(佐野真一『渋沢家三代』など)
大佛次郎は前掲書に、自身の一高時代の空気について、「古い時代の人間の倫理感覚が、性の問題には放縦なくらいにゆるやかで、明治の大官など、権妻を持つのが公然のこととして許されて、それが現在も社会的な遺伝となって残っている」と書いている。
500もの企業、600もの事業の設立や育成に関わるには、尋常ならざるパワーが必要だった。栄一の場合、「一友人」との交流も原動力だったに違いない。
各分野から「大物が現れなくなった」といわれるようになって久しいが、良くも悪くも、「性の問題には放縦なくらいにゆるやか」な「倫理感覚」が失われたことと、無縁ではないだろう。