1993年度の成績は打率1割8分8厘だった「鈴木一郎」
プロ3年目を迎えたばかりの20歳。1993年(平成5年)の成績は12安打、打率1割8分8厘。身長180センチ、体重71キロの華奢な外野手で、当時は決して目立った存在でもなかった。
仰木は新井の提案に、すぐにピンときた。
オリックスの監督に就任した直後、仰木は米ハワイで、日本の各球団から若手選手たちが参加、混成チームを結成してプレーする「ウィンターリーグ」を視察していた。
その中に、鈴木がいた。
シュアなバッティング、のびやかな動き、守っても強肩、しかも俊足。その高いポテンシャルには、目を引かれるものがあった。
2月の宮古島キャンプ、さらには3月のオープン戦。仰木は鈴木を使い続けた。
「こいつはええぞ」「今年、最初から使うぞ」
マスコミにも積極的に若きホープの存在をアピールし続けた。
才能ある野手を売り出すために仰木が行った奇策
「イチローの実力を認めたんです。これはブレークするから使い続ける。仰木さんは、やれると思ったらずっと使うんです」
イチロー抜擢の経緯を、仰木の傍らで見続けてきた横田昭作(現オリックス球団本部長補佐兼国際渉外部長)は当時、広報部の一員だった。
仰木は、その若きレギュラー候補を全面的に売り出すために、奇抜なアイディアを繰り出してきた。
「鈴木、では目立たんやろ?」
仰木がひらめいたというプランは「イチロー」というカタカナでの登録だった。
横田も「面白いアイディアだなと思いました」と即座に賛同した。
ただ「一人だけだったら違和感があるじゃないですか。そこを配慮したんでしょうね。仰木さんがうまかったのは、そこですよ」と横田は振り返る。
確かに「イチロー」という前例のないカタカナ登録とはいっても、まだ実績のない、無名の鈴木一朗という選手では、ただの物珍しさだけですぐに話題も途切れてしまう。
そこで仰木はもう一人、このプランに組み入れていた。
パンチパーマやユニークな発言で、そのキャラクターが際立ち、仰木が“スポークスマン役”として指名していた、当時5年目の外野手・佐藤和弘だった。
「パンチ」と「イチロー」
2人同時に、登録名をカタカナにする。
すると、メディアの注目は、まず言動が目立つ「パンチ」に向く。
そのついでに「イチロー」も露出する。
そうすれば、活躍して目立ち始めた時に「仰木監督が絶賛していたあの選手だな」と思い出してもらえる。
そうしたマスコミ対応も、仰木にはお手の物だった。
仰木の目論見は、見事なまでに的中した。
それどころか、仰木の想像もはるかに超えた大ブレークを果たし、日本中にイチロー・フィーバーを巻き起こすことになるのだ。