プロ2年目のイチローの成績は12安打、打率1割8分8厘。当時は決して目立った存在ではなかった。しかしプロ3年目の1994年、オリックスの仰木彬監督のもとで才能を開花させる。なぜイチローはたった1年でスーパースターに変身したのか。スポーツライターの喜瀬雅則さんは「仰木監督のアイデアがイチローを変えた」という――。

※本稿は、喜瀬雅則『オリックスはなぜ優勝できたのか』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

対ロッテ戦でプロ野球史上初のシーズン200本安打を達成、祝福のプレートを掲げファンの声援にこたえるオリックスのイチロー=1994年9月20日、グリーンスタジアム神戸
写真=時事通信フォト
対ロッテ戦でプロ野球史上初のシーズン200本安打を達成、祝福のプレートを掲げファンの声援にこたえるオリックスのイチロー=1994年9月20日、グリーンスタジアム神戸

優勝から遠のいていたオリックスは仰木彬を監督にした

1994年(平成6年)。

オリックス監督就任1年目の仰木は、その前年の3位から2位へと順位を押し上げていた。

近鉄の監督就任は1988年(昭和63年)。その2年目、昭和から平成に元号が変わった1989年にパ・リーグ優勝。近鉄での5年間は、すべてAクラス入りを果たしている。

退任直後から、水面下で監督就任への打診が相次いだといわれている。

その引く手あまたの仰木が、次なる挑戦の場として選んだのが、近鉄のライバルで同じ関西の神戸を本拠地とするオリックス・ブルーウェーブだった。

前身にあたる阪急時代の知将・上田利治のもと、1984年(昭和59年)のリーグ優勝を最後に、オリックスは長く栄光の座から遠ざかっていた。

西武は1985年(昭和60年)からの10年間で、9度のリーグ制覇。その黄金期真っ只中の1989年(平成元年)に、西武を制して優勝したのが仰木近鉄だった。

ちょうど阪急からオリックスへと歴史のバトンが渡った過渡期にあたるその10年間、前身の阪急とオリックスで8度のAクラス入りも、優勝には手が届いていなかったのだ。

近鉄監督の退任から、わずか1年で再び、闘いの場に戻ってきた。

仰木の代名詞でもある“マジシャン”としての手腕を存分に発揮するのは、ここから8年間のオリックス監督時代と断言してもいいだろう。

就任直後、仰木は後に「希代のスーパースター」となる若き日のイチローと出会い、その育成手腕やチームマネジメントの巧みさに、後に大きな注目が集まることにもなる。

その仰木にとって“知恵袋”の存在にあたるのが、新井宏昌だった。