智将・仰木監督の右腕に選ばれた新井コーチ

新井は仰木の近鉄監督時代、2番打者として活躍した。

1986年(昭和61年)に南海(現ソフトバンク)から近鉄へ移籍。きっかけは、その年に34歳となる新井を、体力的な限界と判断した南海側がトレードを検討していることを聞きつけた当時近鉄コーチの仰木が、球団側に獲得を進言したことにあったという。

移籍翌年の1987年(昭和62年)には打率3割6分6厘で首位打者。さらに1992年(平成4年)には、40歳で通算2000安打を達成している。

その活躍ぶりからも、選手を見抜く“仰木の目”の確かさが分かる。

仰木が近鉄監督を退任した1992年、通算2038安打を放った新井も18年間の現役生活にピリオドを打った。

野球評論家を1年間務めた後、仰木に請われ、オリックスで初めてのコーチ職を務めることになった。

その卓越した技術と打撃理論を、仰木はかねてから高く評価していた。

新井が監督に強く起用を推薦した選手

現役時代のことだったという。

「新井、ちょっと来てくれ」

仰木に呼ばれると、その場で早速、新外国人候補の映像を見せられた。

「これ、どう思う?」

一介のプレーヤーに、意見を求めたのだ。

1軍打撃コーチへの就任要請を受けた当時、新井は41歳。しかし仰木にとって、若いとか、コーチ経験がないとか、そういった序列や縦社会の理屈など、全く関係ない。

任務は「1軍打撃コーチ」。その重要ポジションを新井一人で務めることになった。指導歴のないコーチ1年目の新井に、打撃部門を完全に任せたというわけだ。

「だから、自分のアイディアとか思いを、最初から出させてもらえたんです」

大きなやりがいを感じていた新井が、仰木に強く推薦した一人の若手選手がいた。

「誰が見ても、この選手はいいと思います。レギュラーで使わない手はないでしょう」

それが、若き日の「鈴木一朗」だった。