※本稿は、伊達公子『コートサーフェス研究』(東洋館出版社)の一部を再編集したものです。
世界と日本のテニスの大きな差
「1年以内に100位に入らなければ、プロはもうやめた方がいい」。1989年、プロテニスプレーヤーとして歩み始めた私に、コーチはそう言いました。当時、世界と日本のテニスにはまだ大きな差があり、日本で女子ナンバーワンだった井上悦子(現・兼城悦子)さんでさえ世界ランキングでは最高26位。彼女は私の大きな目標であり、そうした先輩たちが世界で戦うための道筋をつけてくれていたおかげで、世界で戦う術を回り道せずに身につけることができました。
一方、1980年前後の日本の男子プロテニスプレーヤーたちは、アジアを飛び越えて海外の試合に出ることは多くありませんでした。夢を追うより国内で着実に成績を残し、安定した道を選ぶ人がほとんどだったのです。リスクを取ってまで世界に挑戦しなくても、国内で安定的に賞金を得られる時代だったからかもしれません。
サーフェスに合ったプレーをする難しさ
プロテニスプレーヤーと一口に言ってもいろいろなタイプの人がいます。私は世界でのツアープロを目指していたので、そのために必要な目の前のことを一つずつやり遂げるのに精一杯でした。もちろん不安はありましたが、悩んでいる暇などなく右も左もわからないまま世界に飛び込んでいきました。
私の前にはさまざまな困難が待ち受けていましたが、最初に立ちはだかった大きな壁がレッドクレーコートでした。レッドクレー育ちの多いヨーロッパの選手のフットワークについていけなかったのです。
レッドクレーについては子どもの頃からテレビや雑誌で見たり聞いたりしていましたが、それはあくまでも「知識」として……。実際に世界のトップを目指すプレーヤーたちとコートで戦ってみて、初めてサーフェス(テニスコート表面の素材)の大きな違いが襲いかかってきたのです。私の体も心も、これまで経験したことのないような大きなストレスに打ちのめされました。
さらに大変だったのは、レッドクレーシーズンから天然芝のシーズンに変わるときです。短い調整期間の間に、打点の高さ、フットワーク、姿勢、ポジション、シューズ、ストリングスの強さ、戦法など、さまざまなことを変えなくてはなりません。そうした経験を積み重ねるほど、自分自身に求めるものが多くなり、サーフェスに合ったプレーをする難しさを痛感するようになりました。