リーグ2位という躍進を遂げる

当時、仰木の組む打線は「日替わりオーダー」「猫の目打線」と揶揄された。

相手投手との相性、球場、調子によって、前日に本塁打を打った好調な選手ですら、翌日にはスタメンから外すこともあり、周囲を度々驚かせた。

1994年は、1番・イチロー、2番・福良のコンビは130試合中90試合。

イチローが1番を務めたのは110試合あるが、福良以外の20試合での2番打者は6人も使っている。

翌95年、福良は6月に右膝十字靱帯断裂の大怪我を負ったことで、シーズン中盤以降の2番打者は、入れ替わり立ち替わりの8人を起用せざるを得なかった。

仰木が、福良というイチローへの“アシスト役”をいかに重視し、全幅の信頼を置いていたかが、よく分かるだろう。

そうした仰木の大胆な選手起用や巧みな戦略で、オリックスは上位争いを繰り広げた。

イチローの勢いも、とどまるところを知らなかった。

球団史上最高の観客動員数だった94年のオリックス

1994年6月29日。

オリックスの63試合目は、大阪・日生球場での近鉄戦だった。

この試合でイチローは4安打を放ち、打率を.407とした。

日本球界で、いまだにシーズン打率4割超を達成したプレーヤーはいない。その“未踏のゾーン”に、シーズン半ばの時点で、20歳の若きバッターが足を踏み入れたのだ。

若きスーパースターの誕生に、メディアの取材が殺到した。

広報にとっては、かつてない大反響に、それこそてんてこ舞いの日々だった。当時はまだ携帯電話やメールも普及していない。取材申請は、球団への電話とFAXだった。

遠征先のホテルに届いたメッセージやFAXも、部屋のドアの隙間から入り切らないほどになり、広報の横田の部屋の前には試合後、数センチの束となった取材依頼書がうずたかく積まれていたという。

日本中の注目を浴びる中で、イチローは打ちまくった。

1994年、チームは2位に終わったが、イチローは史上初のシーズン200安打超えとなる210安打を放ち、打率.385で首位打者、パのMVPにも輝いた。

「イチロー」はその年の流行語大賞となり、球団の観客動員も、当時の球団史上最高となる140万7000人をマーク。さらに、日本一に輝いた1996年には179万6000人に伸ばし、これは2021年(令和3年)に至るまで、依然として球団史上最高の数字である。

仰木の演出した“イチロー旋風”が吹き荒れた1年だった。

「本人もさることながら、仰木さんもすごいですよね。あれが『鈴木』というままだったら、どうだったんだろうと思ったりしますよ。イチローは絶対にレギュラーになる、絶対にやる。その確信はあったでしょうけどね」

その横田の指摘は、何とも興味深い。