ネパールには仏画師がたくさんいて、実力も価格もピンキリ。ダルマのようにお寺で生まれ、一枚、一枚の仏画が持つ意味を語ることができる者もいれば、仏教的な背景をよく知らず、外国人のお土産用に描いている者もいる。
ダルマは絵を描く技術も高かったので、大型の仏画は日本円にしておよそ3万円で販売していた。それは当時のネパールの物価に置き換えると、30万円を超える価値だった。同じ頃、教師の月給は日本円で約6000円だったそうで、仏画のなかでもかなりの高級品だとわかるだろう。
「1日に3、4時間描いて、あとは自由にしてた」という生活で、仏画もよく売れていたから、ダルマは仏画師の仕事に満足していた。
ほとんど日本語を話せないまま来日して就職
仏画を求める人のためにいつもオープンにしているアトリエに、日本人の女性が訪ねてきたのは1999年のことだった。観光客として仏画を買い求めに来たその女性は翌年も、その翌年も訪ねてきて、次第に親しくなった。
2004年、出会ってから5年目にふたりは結婚。すぐに子どもを授かった。
初めての出産をするには、ネパールの医療に不安がある。ふたりは話し合い、子どもが5歳頃までは日本で育て、その後はネパールで暮らそうと決め、2005年7月、ダルマは妻が暮らす富山にやってきた。
ふたりが最初に暮らした富山市のアパートで、ダルマはすぐに手持ち無沙汰になった。ネパールでは毎日アトリエに大勢の人が訪ねてきたし、いろいろな用事で1日に50回は携帯電話が鳴った。それが訪問者ゼロ、電話をかけてくる人もゼロになって、「すっごく寂しかった」。
来日する3カ月前から現地で日本語を習ったものの、日本に来たらほとんど理解できなかった。そこでまずは、富山市の国際交流センターで開かれている日本語教室に通い始めた。その教室は週に一度、2時間しかなく、それだけではまったく時間が埋まらないので、日本に来てから1カ月後には、「なんでもいいから仕事がしたい!」とハローワークに向かった。
カタコトの日本語しか話せなかったダルマだが、面接してくれる職場を紹介してもらうことができた。そこは木材を扱う会社で大きな丸太を加工していた。まったく気乗りしなかったが、妻から「これも勉強」と言われて渋々と面接に臨むと、後日、その会社から採用通知が届いた。
それからは「やるからには失敗したくない。真剣にやろう」という気持ちで、慣れない現場仕事に臨んだ。
誰かの下で働くとバカにされる文化のネパールから来たダルマさんだが、会社員生活は思いのほか楽しかったと振り返る。
「忘年会とか新年会で、みんなからお酒を飲まされてね。最初は苦い、苦いと言ってたけど、2年くらい経ったらそれがおいしく感じられて(笑)。刺身も、健康のために食べるって感じだったのが、おいしくなりました。職場では、私より長く勤めている人もいたけど、途中でリーダーになって。どうやって会社をやっているかというノウハウも学ぶことができたと思います」