「みんなのために生きなさい」

ダルマは1985年、首都カトマンズの北東に位置するヒマラヤ山脈の玄関口、シンドゥパルチョーク郡で生まれた。ふたりの兄、ふたりの姉、4人の弟を持つ9人兄弟のちょうどまんなかだ。

ダルマの家は地域で名を知られた大きなお寺で、祖父も、父親も僧侶で仏画師。ネパールのお寺では仏教にまつわる彫刻や絵を描く技術が代々継承されているそうで、ダルマも筆を握っている父の背中を見て育った。

歴史あるお寺の息子として育ったダルマは、物心ついた時から父親に「みんなのために生きなさい」と言い聞かされてきた。その影響もあって、高校生の頃から社会に貢献することを強く意識し、寄付を募って仲間たちと学校の黒板やトイレを作ったりしていた。

息子の様子を見て、ダルマの両親はなにか可能性を感じていたのもかもしれない。故郷の村では高校を卒業している人すら珍しい時代に、「大学に行って勉強しなさい」とダルマに言い聞かせた。

ダルマは親の言いつけを守って、当時ネパールに一校しかなかった国立大学、トリブバン大学を受験し、見事、経済学部に合格。高校卒業後、生まれて初めて故郷を離れ、首都カトマンズ近郊にある大学に通い始めた。

大学に入ってからも「社会に貢献したい」という想いは変わらず、NPOを作って、代表に就任。資金を集めて荒れていた山道を整備したり、使い古されたつり橋を架け直したりと忙しく駆け回った。

大学卒業後、仏画師の道へ

当時のトリブバン大学は2年制で、学外の活動に励んでいるうちに、あっという間に卒業を迎えた。ダルマは故郷に戻り、仏画師として働き始めた。そこには、ネパールならではの理由がある。

ダルマさんが描いた仏画
ダルマさんが描いた仏画。(提供=ダルマさん)

「当時のネパールでは、人の下で働いているとバカにされるんです。私のお兄さんは学校の先生をしていたけど、『え、あの人、ひとの子どものお世話してる!』と笑われていました。もし私が企業に就職したら、『あの人、就職してる!』って下に見られるんです」

ただし、あらゆる仕事が嘲笑の対象になるわけではない。例えば仏画師は伝統的な仕事であり、しかもダルマ家で代々受け継がれてきたものなので、むしろ尊敬される。だから、兄ふたりも仏画師になり(ひとりは教師から転職)、ダルマも同じ道を選んだわけだ。

仏画は非常に細かな線で、仏教的なストーリーが一枚の絵に色鮮やかに描かれている。その絵を一目見れば、誰にでもできる仕事ではないとわかる。ダルマは中学生の時に色を塗るところから手伝うようになり、大学生の頃には立派な仏画をひとりで描けるようになっていた。