けがでバイクレーサーの夢を諦め仕事も辞めた
中山さんは1969年、滋賀県の大津市に生まれ、高校生まで同県の栗東市で育った。小中高時代は運動が好きで、バスケットボールに夢中になった。もう一つ、中学生の頃に中山さんの心を捉えたのが「バイクのレース」だった。
「ちょうどその頃に、角川映画で『汚れた英雄』というバイクレースを題材にした作品がありましてね。主演の草刈正雄のカッコよさに衝撃を受けて、『こんな世界があるのか。自分もレースに出てみたい』と憧れたんです」
バイクのレーサーになる夢を抱いた中山さんは、高校を卒業後、本田技研工業に就職し、先輩に誘われて社内にあったモトクロスバイクのクラブに入る。それから鈴鹿の工場で自動車の生産ラインで組立工として働きながら、年間10戦ほどのレースに出場するようになった。
「ところがレースでけがをしましてね。あまり良い成績も残せず、結局、9年間でレーサーで食べていく夢を諦めることにしました。レーサーになることを断念した以上、会社に残る意味も見いだせなくなり、仕事も辞めてしまいました」
デートで訪れた嵐山でやってきた人生の転機
会社を辞めた中山さんは、実家に戻ってアルバイトをしながら、しばらくブラブラ過ごしていた。ところがある日、当時の交際相手と、京都の嵐山を観光に訪れたことが、中山さんの人生を変えることになる。
「嵐山に来たのは初めてでした。渡月橋の近くを2人で歩いていたら、突然、真っ黒に日焼けした兄ちゃんから、『人力車に乗ってみませんか』と声をかけられたんです。当時は今と違って、人力車で観光することがまったく一般的ではなかった。それで『なんじゃこの人』とびっくりして、返事もせずにそのまま通り過ぎました」
そのとき中山さんは28歳。青春時代を通じて打ち込んできたバイクレースの夢を諦め、「何か打ち込めるものを見つけたい」と考えていたときだった。たまたま目にした人力車だったが、家に帰ってからも、日焼けした車夫の楽しそうに話しかけてきた姿が、脳裏から離れなかった。
「人生で初めて人力車を見たとき、『これに乗って観光するより、自分でお客さん乗せて走ったほうが、おもろいんちゃうか?』と思ったんです。それで、京都市役所に電話して、『あの人力車を引く人には、どうやったらなれるんですか?』と聞きました」
役所の職員から、市の観光営業所に電話を回され、そこで教えてもらったのが、唯一京都市内で観光人力車の事業を営んでいる、えびす屋の存在だった。後日、交際相手に「自分も人力車を引いてみたくなった」と伝えると、「絶対そう言うと思ったわ」と言われた。きっと彼女にも、中山さんが人力車に出合ったときのインパクトの大きさが、伝わっていたのだろう。
ちょうどそのとき、えびす屋では京都・平安神宮の前に新店舗の立ち上げを企画していた。採用された中山さんは、その新店舗の車夫として働くことになった。
「いまから24年前のことで、会社もまだできて間もなく、研修なども今よりずっと簡単でした。とりあえず先輩について何度か走ったら、後はもう自力でやるしかありません。観光人力車は街を知らなければ仕事ができません。周辺の道路や平安神宮の観光スポットについて、必死で勉強しました。いまでは一から十まで全部教えるので、だいぶ新人は楽になったと思います」