戦時中、宇品には旧日本軍最大の輸送基地があった

1945年8月6日、なぜアメリカは広島の市街地を原爆投下のターゲットに選んだのか――。ノンフィクション作家の堀川惠子さんが、その問いの先に「宇品うじな」というテーマを見出したのは、10年ほど前のことだ。

宇品港の一部。
©KeikoHorikawa
宇品港の一部。

当時、堀川さんは夫の付き添いで月2回ほど大学病院に通っていた。待合室で診察を待つ間、たまたま持ってきていたアメリカによる原爆投下地点の選定委員会の資料に、「重要な軍隊の乗船基地」という記述を見つけた。「あれ? これって『陸軍の宇品』のことだよな、と驚いたんです」と彼女は振り返る。

「広島に生まれ、かつて記者をしていた私にとっても、宇品というのはあまりに印象の薄い場所でした。広島の中心地から4キロほど離れた埋め立て地の先の先。マツダの工場がある以外は、古いドックや倉庫があるだけで、わざわざ行く理由のない場所でしたから。この数年の再開発で大きく変わりましたが、戦時中、そこに旧日本軍最大の輸送基地があったという感覚は、ほとんどの広島市民にはないはずです」

広島県の軍港といえば、戦時中は戦艦「大和」が建造された「海軍の呉」がある。現在も海上自衛隊の拠点がある場所だ。だが、広島には「陸軍の宇品」もあった。当時、宇品港は日本最大の輸送基地であり、船員や工員を含め約30万人が働いていた。船舶司令部の兵隊たちは「暁部隊」と呼ばれ、原爆投下後の広島市街地でも救援活動を行っている。

一隻の船もなかった陸軍が、海洋輸送体制を作り上げるまで

宇品に陸軍の船舶輸送の拠点が置かれたのは日清戦争の最中。明治期、海軍からの協力を拒否された陸軍は、もともと一隻の船も持っていなかった。よって海洋輸送体制を作り上げることは彼らの重要な課題であり、莫大な投資によって一大輸送基地として整備されたのが「宇品」だった。

「船舶の神」田尻昌次陸軍中将
「船舶の神」田尻昌次陸軍中将(写真=田尻家提供、転載不可)

だが、日露戦争が終わった「戦間期」になると、いわゆる「兵站軽視」の傾向の中で「宇品」は放置される期間が続いたという。そんななか、堀川さんが『暁の宇品』の主人公の一人として注目したのが田尻昌次しょうじという将校だった。

田尻昌次は日露戦争最中の明治38年に陸軍士官学校を卒業し、陸軍大学校を卒業後に宇品に配属された。その後、東京の参謀本部に所属してから、再び宇品の陸軍運輸部(後の船舶司令部)へ。そして昭和15年までの9年間、宇品に在籍した。

田尻が行ったのは「宇品」の近代化である。軍用の舟艇の開発やそれを操舵する船舶工兵の育成の仕組み作りなど、陸軍の「船舶輸送体制」の多くを整えた。そんな彼は後に「船舶の神」とも呼ばれた。