価格競争で値段が下がるにつれて商品の質も劣化

たとえばメルビュー社のアイロン台は、グンナル社とイケアのどちらのカタログにも載っていた。イケアはこのアイロン台を23クローナで売り出したが、グンナル社もそれを、半クローナ安く提供した。イケアはそこで、値段を22クローナに下げ、そんな具合に底辺への競争が続いた。カンプラードはその様子を語っている2

値段が下がっていくにつれ、アイロン台は簡素になり、質も悪化していきました。家具に対しても同様のことが起こっていました。苦情が日増しに増え、将来が危ぶまれました。通販業界は悪評につつまれ、イケアもこれを続けていては生存が難しくなっていました。根本的な問題は、通信販売ではお客は商品を触って見定めることができず、広告やカタログに掲載されている説明を信用するしかないということでした。消費者保護という考え方は当時まだ無きに等しいものだったので、業者が騙すこともできたのです。私たちは生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされました。イケアが潰れるか、あるいはお客の信用を得ながらなおかつ商売になる新しい方法を見出すか、二つに一つでした。

これは生死を分ける脅威だった。両社のカタログは常に同じ商品について相手の価格を下回ろうとして、この仕組みから品質と利潤の両方が失われる。カンプラードには解決策が見えなかった。でもカンプラードの競合がこの問題の解決を手助けしてくれた。別に何か真似るものを与えてくれたのではない。そもそも真似ができないようにしてしまったのだ。カンプラードは、起業家になろうとしていた。

自社家具の常設展示場所を作り、実際に品質を確かめてもらった

1950年から、他のスウェーデン家具販売業者からの圧力のせいで、イケアは家具メッセ(展示会)に出禁をくらった。家具メッセなんて、別に大したイベントではなさそうに思えるかもしれないけれど、売り手と買い手の双方にとって重要なものだ。新作を見せ、売り手とメーカーがつながる機会を与えてくれる。そして中心的な話として、一般にも開かれているのだ。そして、イケアが出展できなかったにとどまらず、カンプラード個人が、名指しで来場を禁じられた。彼は精一杯この裏をかこうとした。一度はじゅうたんの下に隠れて、イェーテボリの展示会のゲートをくぐり抜けたという。

展示場イベントスペースイメージ
写真=iStock.com/KCHANDE
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ストックホルムで彼は、サンクトエーリックメッセ近くに場所を借りてイケアの家具を世間に展示した。この展示が大盛況となった。みんなご禁制の家具を持つ会社に興味を持ったのだ。たぶん入り口の行列で、ご禁制の本を読んでいるお客もいたことだろう。

この展示場所レンタルの成功に続いて、カンプラードは常設の展示場所を作り、一石二鳥の問題解決を狙った。自分の商品を展示することとその品質を証明する必要があった。カンプラードは人々に実際に家具を見てもらい、商品に実際に触れて比較し、お金を払って買う物をもっと理解してほしいと思った。そこで古いビルを買い、中をくりぬいて新しい窓をつけ、自社家具の常設展示場所を作った。