世界有数の銀行バンク・オブ・アメリカ(バンカメ)は、どうやって始まったのか。スクエアの共同設立者ジム・マッケルビー氏は「1世紀前まで、アメリカの銀行は富裕層のためのものだった。バンク・オブ・アメリカの前身であるバンク・オブ・イタリーは、その常識を打ち破ることで、現代の銀行モデルの基礎を築いた」という――。

※本稿は、ジム・マッケルビー『INNOVATION STACK だれにも真似できないビジネスを創る』(東洋館出版社)の一部を再編集したものです。

バンク・オブ・アメリカ
写真=AFP/時事通信フォト
2018年5月11日、米銀行大手バンク・オブ・アメリカの看板を掲げたビル(アメリカ・ニューヨーク)

歴史上で最もすごい銀行家

イノベーションスタックの時代を超えた威力を示すため、ある銀行の話をしよう。そんじょそこらの銀行じゃない。あまりに強力なイノベーションスタックを創り出したので、世界最大の銀行になってしまったところだ。そうする過程で、この銀行は金融の世界を何億人にも開放し、アメリカ西部の大半を造り上げた。実は人々が今や銀行の常識だと思っているもの――支店、貯蓄、小切手、少額融資など――はもともと、1世紀前のイノベーションスタックの一部だったのだ。が、どう頑張ったところで、銀行の話なんて退屈なものに決まってる。

むしろ、あるスーパーヒーローの話をしよう。旅と冒険の物語。邪悪なギャング、殺人、スパイ、もちろん大都市の破壊もある。死と大混乱、もちろんあります! ヒーローはハンサムで茶色い目をした巨漢で、声高だし、ときにはマントさえ着た。これは1800年代の人々は何ら恥じることなく、タイツ姿にならなくてもできたことだ。この物語はあまりに壮絶なので、本書の最初の草稿は劇画だったほどだ1。残念ながら、電子書籍リーダーやオーディオブックでは、ニュース記事のインクの物語をきちんと再現しきれないので、こうした文字に戻す羽目になった。が、形式はどうあれ、歴史上で最もすごい銀行家に会っていただこう。

15歳で義父の商品取引会社へ入社

1869年に、22歳のルイジ・ジャンニーニとその14歳の妻ヴァージニアは、新しい大陸横断鉄道でアメリカを横切ってカリフォルニア州サンノゼに到着した。二人の赤ん坊、アマデオ・ピエトロ(A・P)は1870年に生まれた。頑張る若い夫婦はホテルを経営し、やがて十分貯金をして、肥沃なサンタクララ峡谷に40エーカーの農場を買った。

ルイジはよい農夫で、ヴァージニアはよい経営者だった。農場は繁栄し、家族は増え、弟ができてもう一人も腹の中だった。でもある午後に畑から戻るとき、A・Pと父親の前に、怒った雇い人が立ちはだかった。6歳の息子の目の前で、ルイジは1ドルをめぐる争いで射殺された。若きスーパーヒーローは、金銭問題がいかに悲劇的になるかを、最悪の形で学んだわけだ。

今や21歳の彼の母親は農場を経営して息子3人を育てたが、やがて商品取引人ロレンゾ・スカテナと結婚した。商品取引は冷凍が発明されるまでスリリングな商売で、若きA・Pは夢中になった。15歳にして彼は義父の会社に入った。

A・Pの仕事ぶりは伝説的だった。夜明け前に起きて、他の人たちが遠すぎると考えた畑まで足を運び、そうした農夫が作物を市場に出すのを手伝った。ある日、A・Pは競合が自分を出し抜いて、川向こうの農場に向かっているのを見た。橋まで遠回りしたら競合が先に着いてしまう。そこでA・Pは馬をつなぎ、服を頭上にのせたまま川を泳いで渡った。乾いたままの競合が到着した頃には、A・Pと農夫はすでに契約をかわしていた。