高齢者になったらだれもが認知症になり得る

ところが現実には全国で「介護予防」「認知症予防」の名目で、体操や歩行など運動が盛んに奨励されている。定期的な「教室」を催している地域も少なくない。たしかに、掛け声の一つである「介護予防」つまり筋力低下の防止や転倒防止、身体的健康の維持には効果がある。そのためにはどんどんやってもらえばよい。しかし、認知症予防には効果がない。認知症になりたくないから、ではなく、認知症でもいいので歩行できる身体でいたいから、と思って運動をすればよいのである。

認知症予防に医学的根拠がないのはわかっているのに、なぜ削減の数値目標などというものを政府は出してしまったのか。それは、認知症対策についての大綱の柱として「共生」をうたいながら、認知症の人を尊重し「そのままでよい」と認める思想が、政府の人々の中にないからではないか。

高齢になれば、だれもが認知症になる可能性がある。それが理解されているのだろうか。超高齢社会となって、その可能性はますます増えている。だとすれば、予防ではなくその備えこそ第一に重要ではないか。

車いすで介護
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認知症は「ふつう」で、認知症でないことが「特殊」

認知症にならないための方策を医学的根拠が乏しいままに掲げ、減らす目標数値を世間に公表するのは、「認知症になってはいけない」「認知症は予防しなければいけない」という思想が根底にあるからであろう。これらがさらに推し進められれば、「予防の努力をしていない人が認知症になる」というメッセージになりかねない。

だれもが認知症になってよい。高齢になれば、顔にしわが増えるのと同じように、どんな人でもなる可能性がある。90歳を過ぎたら、認知症の人の比率が認知症でない人を上回る。超高齢の年代では、認知症が「ふつう」、認知症でないことが「特殊」なのである。

もし認知症になったとしても、悲観したり卑下したりする必要はない。健常な人と同様に、堂々と生きていけばいい。世の中の人々がそう感じ、互いを思いやって暮らす社会を作っていく。それが政府の目指すべき目標でなくてはいけない。その姿勢がいまの政府には欠けている、あるいは足りないというしかない。