人びとはすでにものすごい犠牲を払ってきた

小売店の窓のバナーの背景に閉鎖サイン
写真=iStock.com/Maridav
※写真はイメージです

この2年近くにわたり、ぼくたちはずっと「あとちょっと我慢するだけですよ」と言われ続けてきた。「この程度はなんとかなりますよね、がんばってください」と何とも気軽に言われつづけてきた。

そして最初の頃は、それも多少はもっともらしかった。去年の4月あたり、人びとが緊急事態宣言に従ったのは——家からも出ず、子供を学校にも行かせず、非人間的な拘束に耐えたのは——それが一時的な、一回限りのことだとみんな思っていたからだ。だって、そう言われたもの。そしてその後、それが少しのびても、まあ仕方ない。我慢してあげようとは思う。

でもそれが1年半。もうその我慢はとうてい「ちょっと」どころではない。外食産業、旅行産業、イベント産業、子供たちの遊びと学習と成長、ふつうの人間づきあい、社会交流、それがすべて、コロナ対策のために犠牲になってきた。で、ぼくたちはまだこの犠牲をはらい続けるのか?

そしてそういう状況になると、政治家や専門家が登場して、「最後の我慢をお願いしたい」なんてことを言う。でも……それって本当ですか?

もちろん嘘っぱちに決まってる。いまやみんな知っていることだけれど、言っている本人も、これが最後かどうかなんて実はまるっきりわかっちゃいないのだ。これまで何度、この手の台詞を聞いたことか。「ここが山場」「ここが勝負所」「この夏は特別な夏」「真剣勝負の3週間」「本当の正念場」。みんな目先をやりすごすための方便でしかない。

「これが最後」を10年繰り返す気か

で、いつまでそれを続けるんだろうか。このまま「あと少し」「これが最後」「あと一回だけ」「ホントに最後の最後」なんてのを、ズルズルと十年続ける? 無理でしょう。だったら、それをやめる方法を考えなきゃいけない。それはつまり、コロナが終息しなくてもこの手の行動制約をやめるということだ。

こういうとすぐに出てくるのが、人命には変えられないとかいう話だ。コロナで死ぬ人がいるんだから、10年でも20年でも我慢しなさい、というわけだ。

もちろん、そうしたい人びとはそうしてくれて一向に構わない。でもほとんどの人は、はいそうですかとは言えないのだ。