私たちが放り出される空虚な「アフター五輪」社会

東京五輪を象徴する、開閉会式の話に戻ろう。表現する仕事につく人ならば、制約があるのは言い訳にならない。むしろ制約は表現を研ぎ澄まし、制約こそ表現者の本当の実力を問うてくるものだからだ。

だが東京五輪は、1964年の東京五輪と比べても、他都市の五輪と比べても、あまりにも「未曾有」の過酷な条件下にあった。もちろん、最大の要因は新型コロナウイルスのパンデミックだ。だが開催決定から実際の開催に至るまでの道のりもまた、SNSの爆発的な広がりにドライブされる社会の急激な変容によって、ロゴも競技場デザインも会場も人材も、あらゆる「キャンセル」にまみれた。怒りや悪意をものすごい勢いで吸着して膨れ上がり、本来同義ではないはずの「反論する」と「罰する」を容易に直結させるネットのキャンセルカルチャーは、個人の振る舞いだけでなく、政治も、ナショナルイベントまでをも左右する脅威となっている。

IOCバッハ会長は「一度開催されれば、世界も日本もきっと盛り上がるだろう」と発言した。だが米国の五輪放映を独占するNBCユニバーサルによれば、東京五輪の視聴率はリオ五輪から急減している。リオと東京では米国時間との時差も異なるので簡単には比較できないが、翻って日本でも、日本人たちは64年東京五輪ほどには五輪番組を見ていなかった。国内でも、世界でも、ネット社会とコロナ社会が2本立てで怒涛の進行を続け、スクリーンで見るチャンネルやコンテンツの選択肢が圧倒的に増えた中で、五輪の相対的な価値が下がったとは言えそうだ。

五輪閉幕後、菅首相は「さまざまな制約のもとでの大会となったが、開催国としての責任を果たして無事に終えることができた」と語った。足元での急激な感染拡大と緊急事態宣言の再発出を考えれば、成功とは程遠い。閉会式のフラッグハンドオーバー映像で痛感した、同時代の地球の風景とは思えない密で華麗なパリの喧騒とは対照的に、五輪の矛盾に振り回された日本の私たちが放り出される空虚な「withデルタのアフター五輪社会」は、いつもの東京の遠景と同じく灰色のままだ。

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