適切なプロセスを踏むからこそ「正しい」結論になる
お互いにプロ同士が議論をしていますから、どちらの意見も一理あります。聞いていても、それこそ51対49に思えるような議論でした。「明らかに無駄であり、削減すべき」「明らかに必要であり、予算を残すべき」という結論を簡単に出せる案件は、すでに課長レベルで処理されています。お互いに譲れなかった案件が、知事にあがってくるわけですから「明らかにこちらが正しい」と言えるようなものはほぼありません。
僕は議論をじっと聞き、お互いに主張が出尽くすまで徹底的に議論させました。主張機会の保障です。しかし一定の時間制限も設けています。そして主張が出尽くし議論が熟したなと感じたところで、「もう言いたいことはないですか」と聞いてから、最後に僕が「割り箸」の役になって「これについては予算を削減する」「これについては予算を維持する」と結論を出していきました。
双方とも議論を尽くし、言い分は51対49の状態にある。なおかつ、最終的には誰かが決めないといけないことは皆わかっています。そこで誰が決めるかと言えば、選挙で選ばれた僕が決めるしかありません。
僕の出した結論が絶対的に正しかったのかどうかはわかりません。でも、決定に至るまで適切なプロセスを踏んで議論を尽くしています。だから、削減と要求の両当事者が「知事がこれだけ議論を聞き、責任を持って決めたのだから、この結論でまあいいだろう」と納得しやすくなります。すなわち僕の出した結論を「正しい」と擬制してもらえるわけです。
ここでもし、僕が予算見直し財政再建プロジェクトチームの側に加担していたら、「予算削減」の結論を出したときに、各予算要求部局の担当者たちは納得しなかったはずです。予算要求部局側は「知事は自分たちの主張を正当に聞いてくれたのだろうか」と疑問を持ち、不満が残ります。知事の出した結論に納得してもらうために、僕は手続的正義の考え方を基に、裁判のプロセスを応用したのです。
ガチンコの議論を公開で行ったわけ
議論の過程をフルオープンにしたのも、裁判の傍聴人制度を意識してのことです。みんなに見える状態で議論をしますから、お互いに変な主張はしにくい。公開の場で議論してもらうと、傍から見て「どうも○○側には明確な理由はなさそうだ」ということも見えてしまいます。
僕が本当に中立と思ってもらえたかは別として、外形的には僕と副知事は中立の立場を取り、一方の当事者に与せず、黙って聞いて、時折質問し、議論が熟したところで、最後に結論を出しました。こうした手続きを踏めば、どのような結論を出しても、組織に納得してもらいやすくなります。