なぜコメンテーターは「コロナの恐怖」を煽るのか

2020年12月、「羽鳥慎一モーニングショー」(テレビ朝日系)でコメンテーターの玉川徹氏が発したこの一言は、まさに本質を突いていた。

「感染症に関してはある種『煽っている』と言われるくらいでいいんじゃないかって、ずっと思ってやってきたんですよ。結果として『あいつは煽るばっかりで、そんなに大したことは起きなかったな』っていうんだったら、そのほうがいいと思っている」

これこそ、専門家がコロナの恐怖を煽る理由なのである。楽観論を述べて状況が悪化したら叩かれる。一方で、常に悲観論を語っておけば、状況がそれほど悪くならなかったとしても「私たちが警告を発したおかげで国民が危機感を持ち、頑張った。だからこの程度の被害で済んだのです」と言うことができる。いずれにしても、専門家は最悪の事態を口にするほうが利点は多いのだ。

コメンテーターの発言が一方向に流れがちになる理由

私の実体験に話を戻そう。2010年から2011年あたりにかけては「ネットの闇」に関する発言ばかり求められる状態が続き、次にやってきたのが2013年の「バカッター騒動」である。

「バイトテロ」とも呼ばれた若者による愚行をネットに晒す行為だが、このとき、本当に多くのメディアから「なぜ、若者はこんな行為をネットに晒すのか」といった分析をするよう求められた。その際、私は「バカだからです」「未熟かつ頭が悪いので、後先を考えずにこんな愚行を晒してしまう」という身もふたもない回答をしていたのだが、これは私の本心であり、番組の方向性とも完全に合致したためとくに違和感はなかった。

おそらく当時も「ネットのネガティブな側面を聞くのならば中川淳一郎に頼むと手っ取り早い」「中川はなんでもホイホイ受けてくれるし、うるさいことは言わないし、時間や場所についても融通をつけてくれる」といった評判がメディアの作り手のあいだに広まっていたことだろう。現在の感染症の専門家ほどではないが、私も次々と取材をこなしていった。

そうした経験を通じて痛感したのが、メディアに登場するコメンテーターの発言は、どうしても一方向の論調に流れがちな傾向がある、ということだった。司会が促す展開(=制作サイドの意向)や他の専門家の発言が作った空気に従い、きれいごとを語る姿勢が求められる。

「サンデーモーニング」(TBS系)あたりを見ていると非常にわかりやすいのだが、コメンテーターは「先ほど○○さんも言ったように」「いまの○○さんの発言とも重なりますが」などと前置きをしてから自分のコメントを語り始めることが多い。これは要するに、空気を読んでいるのである。「討論番組でもないし、まずは番組が想定している一方向の流れを乱さないようにしよう」「番組を構成するパーツのひとつとして、自分も一体感を醸成することに協力しよう」と忖度そんたくしてしまうのだ。