「ひとつ屋根の下」をどことなく彷彿とさせる

それを不憫に思って声をかけたのが李海潮で、子秋はいつの間にか李家で食事をするのが日常になっていた。やがて凌家の夫婦仲は限界に達し、ついに妻はアパートを1人で出て行ってしまう。

一方、李海潮には「後添いをもらったらどうか」という話が浮上する。相手は子連れの女性で、何回かのお見合いは順調だったが、ある日その女性は、李海潮に息子を預けたまま姿をくらましてしまう。

こうして、李海潮はいつの間にか3人の子どもの面倒を見るようになっていた。そこに凌和平も加わり、血のつながりのない家庭が出来上がっていくのである。

このドラマは日本で爆発的にヒットしたテレビドラマ「ひとつ屋根の下」(1993年)をどことなく彷彿とさせる。これもまた家族のつながりを問うドラマだった。30年遅れで中国の人々も「振り返れば、家族はバラバラになっていた」ということに気づき始めたということなのだろうか。

1993年、フジテレビ系で放送された「ひとつ屋根の下」
©FujiTelevision Network
1993年、フジテレビ系で放送された「ひとつ屋根の下

「夫はいたけど、失踪しちゃったのよ」

こうした話は決してドラマの中に限った話ではない。むしろドラマのような現実の話はいくらでもある。

筆者は10年ほど前、上海で家具製造を営む女性経営者・馮さん(仮名・当時40代)の世話になったことがある。彼女は週末に上海の大学でMBAコースに参加し、平日はキャンパスで知り合った外国人留学生を家に招き一緒に食事を共にしていた。彼女が一人暮らしをしている理由を尋ねると、意外な答えが返ってきた。

「夫はいたけど、失踪しちゃったのよ」

筆者にとって、「失踪」という言葉を身近で聞いたのはこれが初めてだった。彼女が言うには、夫は90年代に事業に失敗したらしい。今のように携帯電話が普及していなかった当時の中国で、一度別れれば消息不明になる。

90年代は、中国の国民全員が豊かになろうと目の色を変えた時代であり、物価が上昇する中で誰もが必死に働いた時代だったといえよう。“見栄”や“外聞”も作用した。他人に先を越される、あるいは置いてきぼりを食らうことを甘んじない人々は、どんな手を使ってでも豊かになろうとした時代だった。

子を残したまま国を出る人も

そんな中国経済を、株価暴落・金融危機・住宅価格の乱高下が襲いかかった。こうした節目に、多額の借金に耐え切れなくなった事業者が次々と消息を絶った。そのとき家族は、夫や親を失った。

経済成長真っただ中の中国では、「出稼ぎ」も家族を分断した。多くの出稼ぎ家庭では、残された家族が犠牲になった。地方の農村から沿海部の大都市へ、沿海部の大都市から先進国の都市に向けて多くの人が流れた。「りんごを買いに行ってくるから」と幼い娘に言い残して、そのまま日本行きの飛行機に搭乗したお母さんも筆者は知っている。