※本稿は、小倉孝保『十六歳のモーツァルト 天才作曲家・加藤旭が遺したもの』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
「旭君が死んじゃうのはあまりに不公平だ」
2016年5月20日。16歳の加藤旭は脳腫瘍との闘病の末、帰らぬ人となった。
旭が逝ったことを知った作曲家の池辺晋一郎は、自分の体験と重ね合わせ、不公平だなと思った。彼は幼いころ、体が弱かった。母は医師から、「お子さんは20歳まで(生きるの)は無理です」と言われている。池辺はそうした母と医師の会話を偶然聞いてしまった。
20歳まで生きられないのなら、やりたいことは何でもやろうと池辺は思った。本を読み、芝居、映画を見て、合唱やオーケストラに参加した。
医師の見立てが悪かったのか、医療技術が上がったのか、池辺は「約束の20年」よりも半世紀以上、長く生きている。
「幸運にも、医師の言葉通りにならなかった。でも、世の中には旭君のように、元気で生きていくと思われていた子が、あんなことになってしまうことがある。僕がこんな歳まで生きているのに、旭君が死んじゃうのはあまりに不公平だ」
池辺は旭が生きていれば、一緒に音楽会や芝居に行き、楽しい交流ができたのにと思い、返す返すも悔しかった。
指揮者大友直人も残念でならなかった。
「大人になった彼ときちんと音楽の話がしてみたかった」
多くの音楽家が彼の死去に虚脱感を覚えた。
楽譜、手紙、遊具、千羽鶴に囲まれて
23日の通夜には同級生や音楽関係者ら約480人が参列した。鎌倉二葉会館の会場には旭が幼少時から書きためた五線譜が飾られた。
翌日の葬儀では、旭の作曲した「くじらぐも」がハープで生演奏された。ひつぎの中で横になる旭は穏やかな表情をしていた。出棺の際、栄光学園の制服、楽譜、鉛筆、担任の林や同級生からの手紙、八木重吉の詩、旭が好きだった盤上遊戯「カロム」の玉、そして栄光学園のみんなが折った千羽鶴が入れられ、旭の身体は花で覆われた。
ひつぎのふたが閉まるとき、妹の息吹が旭の親友、中村耀三からの手紙を下から引っ張り出し、旭が読みやすいように開いて置いた。ひつぎのふたが閉まった。母の希がその上に花束を置いた。
戒名は「旭光清奏信士」。CDと学校の名前にある「光」の文字が入っていた。
6月5日に銀座のヤマハホールで追悼コンサートが開かれた。三谷が代表を務めるアーツスプレッドの企画である。旭が最晩年に作った「船旅」と「A ray of light(一筋の希望)」を三谷がピアノで独奏した。
父の康裕が遺影を持って客席で立ち上がると、聴衆は割れるような拍手をした。
三谷は、「旭君は『同じように難病に苦しむ子どもたちのためになりたい』という気持ちがありました」と紹介し、CDや楽譜の売上から小児がん患者らを支援する3団体に寄付金を贈った。