「忘れないよ きみとのたび」

康裕は舞台でこう話した。

「自分の作った曲を何かに役立てたいという夢が叶い、旭も喜んでいると思います。今日は一緒に連れてきました。会場のどこかで楽しんでいると思います」

参加者全員で「くじらぐも」を合唱した。

〈忘れないよ きみとのたび〉

旭が作った歌詞が会場の一人一人の胸に届いた。

コンサートには、『くじらぐも』の作家、中川李枝子も参加していた。翌日、彼女は希に電話をし、「旭君は生き切ったのね」と伝えている。

栄光学園での追悼式は旭が旅立ってちょうど1カ月後の6月20日だった。みんなで黙禱をしたあと、校長の望月がこうあいさつした。

〈私たちは苦しみの中にいるはずの加藤君と会うたびに、いつも逆に明るい気持ちになり、自分も一生懸命にがんばろう、という思いに、自然になっていきました。それは、加藤君が自分自身の中で、痛みや苦しみを、逆に、友だちや周りの人々、そして特に同じような難病とともに生きている人々に対する、思いやりや愛情に変化させていたからではないかと思います。〉

旭を撮影した写真がスライド上映され、同級生が彼との思い出を語ったあと、旭の詩を朗読した。彼が高校1年生のときに作った英語詩だった。

〈The more I listen to nature
The more it shows its spirit
Oh, how I love nature
Forever, we should cherish and nurture
自然に耳を傾けたなら
彼らは僕に語ってくれる
ああ、本当に自然が好きだ
いつまでも守り育むべきだ〉

同級生の武優樹が旭の曲「しずかな春の夜」をピアノ演奏する中、同級生が交代で舞台に上がり遺影に向かって献花した。

男性ピアノ演奏
写真=iStock.com/Minerva Studio
※写真はイメージです

母が語った「旭の本当の強さ」

最後に希が、こうあいさつしている。

<初めて脳腫瘍が疑われたのは旭が中2で、MRI検査をしたときです。画像では、素人でも明らかに腫瘍だとわかる影が確認でき、すぐに大きな病院で検査した方がよいと言われました。

その帰り道、旭は「原因がわからない頭痛よりもいいよ。原因がわかれば治療してもらえるから」と言い、つられて私も「あれはどう見ても端っこの方やった。きっと手術でさっと取れる位置やね」と答えました。お互いに非常事態とはわかっていながら、明るく乗り切っていこうという暗黙の了解があったように思います。

以降5回の手術と抗がん剤治療、放射線治療。言葉にするとそれだけのことですが、どの治療にも命の危険や激痛、だるさなどが伴いました。そのどれをも旭は「学校に戻りたい」という強い気持ちを支えに乗り切ってきました。