産学連携の先駆けであり、世界で初めて株式上場を果たしたバイオベンチャー企業、ジェネンテック社。その創業を実現した男は、大手ベンチャーキャピタルをクビになった若きビジネスマンだった。彼は自宅から科学者に電話を掛けまくり、創業のパートナーを捜し回った――。

※本稿は、レスリー・バーリン著・牧野洋訳『トラブルメーカーズ 「異端児」たちはいかにしてシリコンバレーを創ったのか?』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の「訳者あとがき」の一部を再編集したものです。

ジェネンテック社の研究室で撮影用のポーズを取るボブ・スワンソン(1984年)
写真=Roger Ressmeyer/CORBIS/VCG via Getty Images
ジェネンテック社の研究室で撮影用のポーズを取るスワンソン(1984年)

「商業化までどのぐらいの時間がかかりますか?」

仕事を探していて、十分な時間を持ち、失うものは何もなかった。となれば「当たって砕けろ」である。ボブ・スワンソンことロバート・アーサー・スワンソン(当時28歳)は、自宅に置いてあるピンポン台(仕事机兼食卓)を拠点にして、1年前(1975年2月)の「アシロマ会議(遺伝子組み換えをテーマにした国際会議)」に参加した科学者に片っ端から営業電話をかけることにした。

スワンソンは電話をかけるときには毎回「私は遺伝子組み換えに興味を持っているビジネスマンです。少し質問してもいいですか?」と切り出した。断られる場合もあれば、回答を得られる場合もあった。

主な質問は決まっていた。「遺伝子組み換えの商業化までどのくらいの時間がかかりますか?」「最新技術を駆使して大量生産にこぎ着けるとしたらいつですか?」である。電話の向こうの科学者は一様にあいまいであり、「しばらくは無理」「技術はそこまで進んでいない」「大量生産はまだ検証されていない」などと答えるだけだった。

強引に面談を取り付ける

ハーブ・ボイヤーに電話をかけたとき、スワンソンはベンチャーキャピタルのクライナー&パーキンス(K&P)をクビになって正式に失職していた。相手が遺伝子組み換えの共同発明者の一人であるということも知らないまま、商業化までどれくらいかかるのか質問した。「数年内」という回答を聞き、驚いた。これほど大胆な予測をする科学者に出会ったのは初めてだったのだ。

「実際に会ってお話しできるでしょうか?」とスワンソンは聞いた。
「忙しいから……」
「どうしても直接お話ししたいんです!」。スワンソンは決して引き下がらなかった。遺伝子組み換えの商業的価値を理解できる一流科学者にやっとこのことで出会えたのだから。