科学者も商業化の可能性を考えていた

スワンソンは自分の強みを認識していた。大胆で粘り強く、ビジネスセンスを備えていると自負していた。同時に弱みも分かっていた。まず、遺伝子工学の背後にある科学を理解できていなかった。次に、営業電話で冷たくあしらわれたことからも分かるように、生物学者に信用されていなかった。一流の科学者と組まない限りは、起業は無理だということだった。

レスリー・バーリン著・牧野洋訳『トラブルメーカーズ 「異端児」たちはいかにしてシリコンバレーを創ったのか?』(ディスカバー・トゥエンティワン)
レスリー・バーリン著・牧野洋訳『トラブルメーカーズ 「異端児」たちはいかにしてシリコンバレーを創ったのか?』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)

一方で、ボイヤーは何カ月にもわたって遺伝子組み換えの商業化について密かに思いを巡らせていた。きっかけは幼い息子が小児科医で受けた成長ホルモン検査だった。息子には何の問題もなくて安心したものの、小児科医から「成長ホルモンの入手は難しい」と言われてひらめいたのだ。

成長ホルモン遺伝子を分離できたら、遺伝子組み換え技術を駆使してヒト成長ホルモンを大量生産できるかもしれない! 当時を振り返り、「まだ空想段階でした。起業なんて考えたこともなかった」と語る。

ボイヤーは筋金入りの科学者だった(ペットのシャム猫を「ワトソン」と「クリック」と名付けていた)。同時に、研究成果の商業化を視野に入れていた点で異例の存在だった。当時、生物学者の大半は産業界を懐疑的に見ていた。

アーサー・D・レビンソン——後にジェネンテック最高経営責任者(CEO)、アップル取締役、グーグル取締役になる——は自分自身が若い生化学者だった時期を思い出し、「企業と接触するのもはばかられる時代でした。だから企業に電話するときはラボを出て、外の公衆電話を使ったものです。そうすれば同僚に気付かれないですから」と言う。ブルック・バイヤーズも同意見だ。「研究成果の商業化を考える科学者は物議を醸す存在でした。1960年代にエレキギターへ転向して批判されたボブ・ディランと同じ。あれは一体何なの? 何か悪いことが起きるのでは? こんな受け止められ方でした」

電話の向こう側にいる熱心な若手ビジネスマンが遺伝子組み換えの会社を立ち上げる? 本当にできるのか? ボイヤーはあまり期待していなかった。それでも、話をするくらいならいいではないか、と思った。これまでパイオニアとして取り組んできた技術をいち早く社会へ届けるという点では、会社立ち上げは効果的な手段になる。これまで通り自分はラボで働き続け、技術の商業化を夢見るスワンソンという若者に任せればいい。ひょっとしたスワンソンの会社はいい方法を見つけ出すかもしれない。

「分かった。いいですよ。金曜日午後なら、10分間だけ時間があります」とボイヤーは答えた。

バーで3時間話し込み意気投合

スワンソンはカリフォルニア大学サンフランシスコ校キャンパスの駐車場に車を止め、ボイヤーのオフィスに向かった。がっしりしていて身だしなみが良く、頭髪が薄くなりつつあるビジネスマン(後年記者から「分厚い財布の上に立たない限りは、大男には見えない」と評される)。上等なスーツにポケットチーフを着けてキャンパス内を歩いていると、いや応なしに目立つ。周りはカジュアルないでたちの学生や教員ばかりだからだ。対照的に、ボイヤーは童顔とふさふさの巻き毛をトレードマークにし、飾り付きのスウェードのベストを着込んでいた。

2人は研究室内で会話を始めたが、すぐに近くのバーへ移動した。ビールを何本も飲みながら3時間にわたって話し込み、お互いの強みとニーズが相互補完関係にあるという認識で一致した。スワンソンは科学ではなくビジネスを理解しており、ボイヤーはビジネスではなく科学を理解している。