若きスティーブ・ジョブズとスティーブン・ウォズニアックが、ジョブズの自宅で創業したアップル。その小さなスタートアップを大企業へと成長させる道筋を付けたのは、初代会長のマイク・マークラだった。ジョブズにとって唯一無二のメンターでもあったというその人物像とは――。

※本稿は、レスリー・バーリン著・牧野洋訳『トラブルメーカーズ 「異端児」たちはいかにしてシリコンバレーを創ったのか?』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の「訳者あとがき」の一部を再編集したものです。

1977年、スティーブ・ジョブズにアップル社への投資を象徴する小切手を渡すマイク・マークラ
写真=via AllAboutSteveJobs
1977年、自らのアップル社への投資を象徴する小切手をスティーブ・ジョブズに渡すマイク・マークラ

会社と呼べる状態ではなかった創業直後

インテルを退社して悠々自適の生活を送っていたマイク・マークラ。ベンチャーキャピタリストのドン・バレンタインの依頼を受け、1976年秋、起業家2人(スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアック)のガレージを訪問した。

起業家2人が立ち上げたアップルは、素人経営のスタートアップでありながらもすでにわずかに黒字化していた。1枚当たり200ドルで回路基板を組み立てて、1枚500ドルで電器店バイトショップへ売っていたからだ。

とはいっても、マークラ以前のアップルはとても会社と呼べるような状態ではなかった。第一に、実家のベッドルームとガレージのオフィス賃料はゼロ。第二に、営業部隊はジョブズとウォズニアックの2人。主な仕事は車であちこちの電器店を訪ね、アップル製コンピューターを売る気はないかと聞いて回ること。

第三に、唯一給与をもらっていたのはジョブズの妹とジョブズの友人の2人だけ。それぞれ回路基板1枚当たり1ドル、時間当たり4ドル稼いでいた。第四に、2人はアップルⅠの小売価格を666.66ドルに設定していた。バイトショップへの納入価格500ドルに30%の利幅を上乗せしたうえで、同じ数字の繰り返しになるように少し数字をいじっていた。このほうが面白い、とウォズニアックが思ったからだ。

引退後の個人的目標を列挙した情報カードに従い、マークラは週1回に限って将来性のある起業家にアドバイスしてきた。ジョブズの実家ガレージ内で立ちながら、ウォズニアックのアップルⅡを見て確信した。これこそ自分専用コンピューターを夢見る人の希望をかなえるマシンだ! ただし、今後もアップルⅡ一本やりでいいのかどうか、はっきり分からなかった。

そこでジョブズとウォズニアックの2人に対してビジネスプランを作成するよう提案した。これまでも多くの起業家に対してビジネスプラン作成を促し、効果を上げてきたのだ。ビジネスプラン作成のポイントとして、部品調達コストや流通チャネルを見極めるほか、市場規模を推定する必要性を指摘した。まだ存在していないパソコン市場の規模を推定するのは難しいということも分かっていたので、アメリカ国内で普及している電話台数を目安にするようアドバイスした。