失業手当で食いつなぎながら

事業パートナーを得て目指すべき製品を決めたことで、スワンソンは古巣のK&Pに協力を求めた。遺伝子組み換えの会社を立ち上げるまでの間、給与を払ってもらえないか、と打診したのだ。タンデム・コンピューターズの先例を知っていたからだ(タンデムの共同創業者はインキュベーションの時期に「常勤起業家」として扱われ、給与支払いを受けていた)。

しかし、K&Pのユージン・クライナーとトム・パーキンスの2人からはつれない反応しか得られなかった。後年になって当時を思い出し、「2人の間で何かがあったのかもしれません」と推測するのだった。

そのころには毎月410ドルの失業手当で食いつないでいたスワンソンは、大きな決断を迫られていた。ベンチャーキャピタルから支援を受けられず、給与支払いというセーフティーネットは諦めなければならない。一方で、事業パートナーであるボイヤーは協力してくれるとはいえ、大学での教授ポストを捨て去るつもりはないから、当てにするわけにはいかない。

要するに、遺伝子組み換えの商業化を目指すならば、文字通り持てる力の百パーセントを注がなければならないのだった。起業が成功する保証がどこにもないなかで、無給のままで何カ月にもわたって全力疾走する覚悟があるのかどうか、ということなのでもあった。

ここでリスクを取らなかったら一生後悔する

そんな展望を頭の中で描いてスワンソンは不安におののいた。だが、MITを卒業後最初に就職したシティコープ時代のことも思い出した。たった1日で、同行は200人に上る管理職——勤続数十年の社員も含まれた——を解雇したのだ。誰かに雇われているからといってセーフティーネットに守られているわけではない。

今目の前にあるチャンスに目をつぶって85歳の誕生日を迎えたとき、自分の人生を振り返ってどう思うだろうか? 納得できるか? 85歳になった自分を想像してみておのずと答えは出てきた。ここでリスクを取らなかったら、一生後悔することになる!

スワンソンはスタートアップに一生を懸ける最高経営責任者(CEO)になる決意をしたのだ。初動は失笑ものだった。ボイヤーに対して「社名は2人のファーストネームを組み合わせてハーボブ(Herbob)にしましょう」と提案したのだ。これを聞いてボイヤーは「ジェネンテック(Genentech)にしよう」と逆提案した。由来は「遺伝子工学技術(genetic engineering technology)」だった。