生まれて初めて、本当の意味で本を「読んだ」
最初の金融危機の時に、私は生まれて初めて、本当の意味で本を「読んだ」と言えるかもしれません。それまでも、学生の頃はそれなりに多くの本を読んでいたとは思います。しかし社会人になってからは金融の資格試験や海外留学など、ひたすら知識を詰め込むための読書、試験を通るための読書しかしていませんでした。それが、その時には、ある意味で自分の存在をかけて、必死に読書をしたように思います。読書で「必死に」という形容はおかしいかもしれませんが、それほど真剣だった、短く言えば、「溺れる者は藁をも掴む」という切羽詰まった状況だったということです。
最初に私が必死に読んだのが、瀬島龍三の回想録『幾山河:瀬島龍三回想録』でした。瀬島龍三は、山崎豊子の小説『不毛地帯』のモデルにもなった日本のフィクサー的存在です。もともと、陸軍士官学校に在校していた私の父親からその名前をよく聞いていたこともあり、陸軍大学首席、陸軍大本営からシベリア抑留、そして伊藤忠商事に転じ、最後は土光敏夫会長の下で臨時行政調査会を切り盛りしたという波乱万丈の人生に興味を持っていました。
もちろん、瀬島龍三が当時から毀誉褒貶のある人物なのはよく分っていましたし、この本は彼自身が書いた自伝ですから、自分に都合の悪いことを書いてあるとは思えません。ただ、私が何度も読み返したのは、彼の成功物語ではなく、シベリア抑留時代の部分でした。
それまで銀行でサラリーマン根性を徹底的に叩き込まれてきた自分にとって、心底考えさせられる内容でした。自分もこうした人間の真実に気づかないまま、「会社内の階級イコール人間の価値と信じ込んできた」のではなかったか。人間は本当に追い詰められたときに、なにを心の支えにするのか、自分の内面というのは実はなにもない空洞に過ぎなかったのではないかと。
『夜と霧』を自分事として読むことができた
ナチスの強制収容所経験をもとに書かれたヴィクトール・フランクルの『夜と霧』も読み直してみました。この本は学生時代に読んだことがありましたが、その内容のあまりの壮絶さに、どのように消化したら良いか分からずにいました。しかし、私が体験したことはそれにはほど遠いレベルではあるにせよ、自分が厳しい状況に追い込まれると、絶望のふちに立たされてもなお人間性や希望を失わなかったフランクルがなにをどのように考えていたのか、この時初めて自分事として読むことができました。