厳しい人生経験が、ひとかどの人間をつくる

フランクルは、「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない」といっています。つまり、我々人間は、常に「生きる」という問いの前に立たされており、それに対して実際にどう答えるかが我々に課された責務なのだということです。

そして、後日ではありますが、フランクルが強制収容所の中で、自らに降りかかる運命をいかに克服してゆくかを説くストア哲学(ストア派)の教えを心の支えとしていたと言われていることを知りました。

戦時体制で国有化された電力事業を今の九電力体制に組み替えて、「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門は、実業家がひとかどの人物に成長するには、「闘病、浪人、投獄」のどれかを体験しなければならないと言っています。このどれもが、自らの存在意義を問われるような大きな出来事です。つまり、自分の存在が脅かされるような過酷な状況に立たされたとき、人には生きようという不思議な本能が働き、五感が研ぎ澄まされて、一皮むけた人物になるということなのです。そして、そうした深く厳しい人生経験と良書が時空を超えて、胸襟を開いて互いに出会える瞬間に備えることこそが、まさに本を読む意味なのだと思います。

鍵穴がいくつも開いた本と鍵を持った小人
写真=iStock.com/francescoch
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「金融というものの正体はなんなのか」

それから十年が経ち、こうした苦しみからやっと抜け出すことができ、森ビルの森稔会長と一緒に都市開発の大きな夢を見て、心身ともに充実した仕事ができていた中でリーマンショックに直撃されたときには、さすがにこれはなにか一過性ではない、根本的な問題に突き当たったと考えざるを得ませんでした。

それは、私を取り巻く経済環境の問題なのか、あるいは自分自身が抱える業なのかは分かりません。

いずれにしても、ただ自らの不運を嘆くだけでなく、もっと本質的な問題に能動的に取り組まなければならないし、こうした二度の大きな危機を経験した以上、自分なりにこの問題に正面から立ち向かうことで、なんらかの決着をつけなければ、これ以上、ビジネスマンとして前に進めない、そう強く感じたのです。

我々に執拗しつようにまとわりついて離れない金融というものの正体はなんなのか。そしてその前提にある資本主義とはなにか。資本主義は人間存在にとってどのような意味があるのか。なぜ企業は成長し収益をあげなければならないのか。金融というのは本当に世の中の役に立っているのか。そもそも自分はなぜ新卒で金融業界に就職したのか……そうした根源的な疑念が次から次へと湧いてきたのです。