社会に怒っている人は自分に怒っている

さて、いい話ですが、また飛躍させてみます。

ここまでは、対象は「カミさん」でしたが、これを「社会全般」に置き換えてましょう。

もしかしたら、「嫌な世の中だよな」と思う時は、自分が嫌な奴なのかもしれません。「ああ、やっぱりいい世の中だなあ」と思える時は、自分がいい奴なのではないか、と。

ここで、ご紹介したい落語が、「松山鏡」という噺です。

あらすじは——越後の松山村で、親思いの正助という男に親孝行のご褒美を渡すことになった。が、元来欲のない正助は田地田畑より「死んだ父親に会いたい」とお役人に答える。お上は正助が死んだ父親に瓜二つということから、鏡を下げ渡すことにした。その村では、誰も鏡というものを見たことはなかったのだ。桐の箱に入った鏡を見つめると正助は写った自分を父親と思い込み、朝晩納屋に隠して見つめるのが日課となる。これを怪しんだのが正助の女房。「何か納屋の中に隠しているものがあるに違いない」と正助の留守に納屋に入って桐の箱を開けてみて驚いた。「こんなところに女を隠していたのか」と。女房も鏡を見たことがなかったことで大げんかになる。これに仲裁に入ったのが近所の尼寺の尼さん。「私が話をつけて来る」といって、納屋に入り、桐の箱を開けて驚き、そして笑う。「心配ないよ、中の女は反省して坊主になっている」。

「鏡のない村」の無知というか、無邪気さを笑う落語ではありますが、この噺は、「案外人間自分のことは自分ではわからないものだよ。誰もが自分は見えていないよ」、そして、「相手を見ているつもりで、実は自分を見て怒ったり、納得したりしているんだよ」という深いことを訴えているのではと、読み解けないでしょうか。

いい社会にする秘訣は自分を変えること

「自分の周囲をいったん鏡だとしてみる」という具合に敷衍ふえんさせると、そこに浮かび上がってくるのは攻撃材料ではなく反省材料のような気がします。

たとえば、ランチに入ったお店などで「ムカつく店員さん」に遭遇したら、「ああ、自分がもしかしたらその前にムカつかせるような言動をしていたのかも」と一瞬思ってみることで柔らかく受け止められるような気がしませんでしょうか。無論相手が完全に悪い場合もありますが、そういう場合にしても「自分の悪い部分が見えたのかも」と思うことで幾分気持ちは安らぐはずです。他人が「鏡に映った自分」ならば変えようはありませんもの。変えるべきは自分なのです。

立川談慶『安政五年、江戸パンデミック。 江戸っ子流コロナ撃退法』(エムオン・エンタテインメント)
立川談慶『安政五年、江戸パンデミック。 江戸っ子流コロナ撃退法』(エムオン・エンタテインメント)

談志はよく落語のマクラで、「政治家なんて大したのが出て来ないのは当たり前だよ」といい、周囲を見渡して「よくご覧。この中から出て来るんだよ」と言っていたものでした。

周囲を見て「大した人はいない」と思うのなら、「自分が大した人」ではないと思うべきなのでしょう。

こんな具合に「自分の周囲は鏡に映った自分」だと思うような訓練をコツコツ積み重ねてゆけば、今よりいい社会ができそうな感じがしませんか?

手始めに、ご自身の奥さまを鏡だと思ってみましょう。ご自身が変わるキッカケがそこにきっとあるはずです。

リビングで赤ちゃんにほほ笑みかける若い夫婦
写真=iStock.com/itakayuki
※写真はイメージです
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