長沢節は「弱さの美」を称揚した人物だった

セツ・モードセミナーの創設者で、ファッション・イラストレーターの長沢節は、戦時中、軍国主義に突き進む日本に反感を抱き、軍事教練を徹底的にちゃかした。その結果、教練不合格になり、希望していた官立の東京美術学校(現芸大)への道は閉ざされてしまった。また、節が雑誌に描く人物画は、国籍不明、痩せて病的、胸に日の丸を付けていないなどの理由から執筆停止となった。戦争画は決して描かなかった。

長沢節『弱いから、好き。』(草思社)
長沢節『弱いから、好き。』(草思社)

長沢節は、「弱さの美」を称揚した人物だった。とくに、「細長いスネをもつ優しい男たち」の美を愛した。戦後に書かれた「弱いから、好き」というエッセイの中で節は、

男が強く頼もしいのではなく、孤独で弱い男性の美しさ……それは全く兵隊の役には立ちそうもない男性美。全く亭主の役にも立ちそうにない男性美として、それこそが現代の新しい男性像ではないかといってみたのである。

と記している。

痩せていて、骨ばったモデルばかりを好み、繊細な美しい線で描く節の人物画には、平和主義や反戦の思いが込められていたのではないかと、ぼくは思う。今となっては珍しくはないが、マッチョでたくましく、兵役をまっとうできる男性像がよしとされていた時代、またその名残があった戦後間もなくの時代に、「弱い男性美」を描くのは勇気と信念がいる行為だっただろう、とも。

酒をやめられたのは、自分の「弱さ」を自覚したときだった

そう思ったとき、ほんのちょっとだけだけど、「弱さ」について違った側面が見えてきた気がした。

キチジローの嘆きや節の美学からぼくが受け取ったのは、「弱くある」ことは、とても贅沢なことである、ということだ。とくに、支配される者、虐げられる者にとっては、弱くあり続けられることは、贅沢なことだった。被抑圧者は、絶えず「強さ」か「弱さ」の二者択一を強いられる。そして、ときに「強さ」によって殉死し、ときに「弱さ」によって罪を背負わされ、またときに殺されたりもした。弱くあり続けることは、いつの時代だって困難だった。

考えてみれば当たり前だが、人類にとって、「弱さ」は「強さ」よりも常に先行して存在したはずである。だから、人類は紆余曲折を経ながらも「弱くある贅沢」を求めて、弱くても生きられる社会を目指してきた、と解釈することはできないだろうか。

ぼくはなにも、「弱さ」を開き直れ、と言っているわけではない。しかし、ぼくのアルコール依存症も、つまるところ「弱さ」を受け入れられなかったことに原因があったと思っている。体の弱さを顧みず「まだ平気」と父の忠告を無視し、精神的にも弱く、信念を持ち続けることもできないみっともない自分を少しでも「強いやつ」だと思えるよう、酒を浴びるように飲み続けた。酒をやめられたのは、自分の「弱さ」を自覚したときだった。