「強さ」に固執する人は、裏を返せば「弱さ」を抱えている人
そして、「弱さ」への自覚は、弱い立場に置かれた者の気持ちに敏感になろうとする第一歩となるのではないだろうか。節の美学は、旧来の特権にしがみつき、「強さ」や頼もしさばかりをアイデンティティにしようとする現代の一部の男性たちに対して、「本当の贅沢を知らない」と警鐘を鳴らしているようにも思う。むしろ、「強さ」を誇示することによって、生きづらさを抱えてしまうのが現代なのであり、男性が「強さ」に固執しなければ生きられない時代は、めでたくもう終わった。ようやく性別に関係なく、誰もがお互いの弱さを支えながら生きていける時代が始まるのだ、と。
弱くあるのは贅沢なことなのに、それを粗末に扱い、捨てるなんてもったいないと思う。男女といった区別なく、ただ単に「人間」として他者を思いやる贅沢をぼくは享受したい。
しかし一方で、弱くあり続けることは、二項対立的に判断を求めてくる圧力に対峙し続けなければいけないということでもある。生活や保身のために「弱さ」を選ばなければいけない時点で、「弱くある贅沢」はすでに脅かされている。過剰に「強さ」に固執せざるを得ない状況に置かれるのと同じように、そこには強制力が働いているからだ。「強さ」に固執する人も、裏を返せば「弱さ」を抱えている人だとも言える。
「弱いやつ」は、ある意味、未来の贅沢を先取りしている
自分の美しいと思うものを、踏みにじらないでも生きていけること。あらゆる二項対立を超え、人間が人間であり続けられること。人間の「弱さ」に敏感で、それについて常に思考し続けること。それこそが真の意味での「弱くある贅沢」だとぼくは思う。
そのために、ぼくはなにができるのだろうか。
遠藤周作は、殉教した強者だけではなく、踏み絵を踏んでしまった歴史が隠蔽する弱者にも声を与えたかった、ということが『沈黙』執筆の動機の一つだと語った。強くもなく、英雄でもなく、弱くて、脆くて、壊れやすく、ときに過つ存在。現時点での人類の理性だけではこぼれ落ちてしまう「弱いやつ」の声を、ぼくもすくい上げていきたいと切に思う。
なにせ、ぼく自身がその「弱いやつ」なんだから、なんとも心許ないけれど、贅沢であるがゆえに、その時代を生きる困難さを抱えた「弱いやつ」は、ある意味、未来の贅沢を先取りした存在だとも言える。だから、やってみる価値はあると思っている。
その先にある、さらなる「弱くある贅沢」のために。
『1122』(渡辺ペコ、講談社、モーニングKC)
『沈黙』(遠藤周作、新潮文庫)
『「沈黙」について』(遠藤周作、1966年6月24日紀伊國屋ホール講演音源、新潮社)
『細長いスネをもつ優しい男たちの中で』(長沢節、文化出版局)
『弱いから、好き。』(長沢節、草思社文庫)
『長沢節物語 セツ学校と仲間たち』(西村勝、マガジンハウス)
『長沢節 伝説のファッション・イラストレーター』(内田静枝編、河出書房新社)