ライターの宮崎智之さんは、亡き父から「宮崎家の男は酒を飲むと体を壊す」と何度も言われていた。しかしアルコール性膵炎で二度も入院するまで、酒を365日、休みなく飲み続けていた。なぜ宮崎さんは酒に溺れてしまったのか。新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい』(幻冬舎)から、その一部をお届けしよう――。(第2回)

※本稿は、宮崎智之『平熱のまま、この世界に熱狂したい 「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)の4章「弱くある贅沢」の一部を再編集したものです。

愛犬の前では、自分の弱い部分を素直に出せる気がする

愛犬が可愛くて仕方ない。愛犬を飼って驚いたのが、当たり前のことだけど、ペットには生活のほとんどが自分で出来ないことだった。エサ、排泄の処理、散歩などなど、基本的には飼い主まかせ。しかも我が愛犬は通称「ダラけいぬ」であり、最近では仰向けで寝て、挙げ句の果てには毛布に埋まり、広がった両足だけを外に突き出す。

まるで、映画『犬神家の一族』の「スケキヨ」みたいである。いくらなんでも、さすがに油断しすぎだ。こいつ自然界だったら生きていけるのだろうか、と心配になる。

もちろん、ペットなんだからそれでオッケーなのだ。野生に戻るなんてことはない。しかし、末っ子長男として育ったぼくは、ペットを飼うことによってあらためてそれを実感し、衝撃を受けたのだった。「生まれてはじめて、自分がいなければ駄目なやつが現れたぞ!」と。

かわいい子犬
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愛犬のすごいところは、徹底的に「弱い」ところだ。人間との歴史によってそうなっていったにせよ、その弱さは衝撃的であり、またたまらなく愛おしいところでもある。犬は賢い動物で、飼い主が元気のない時にはしばしば寄り添ってくれる。愛犬の前では、なぜだか自分の弱い部分を素直に出せる気がする。弱いぼくらは支え合って生きている。

理性や知性で了解しても、どうしても変えられない人間の愚かさ

長年、ぼくがずっと考えていることについて書きたいと思う。それは、人間の「弱さ」についてである。この厄介な問題は、ぼくの人生をいつでもどこでも付いてまわり、「弱さ」についての文章を書こうと思って、深夜に書きあぐねている今もまだ考え続けている。

ぼくが気になっている「弱さ」とは、理性や知性で了解したとしても、どうしてもそういうふうに生きたり、行動したりできない人間の愚かさのことである。ぼくに限らず、誰もがそういう「弱さ」を抱えていると思う。だから、あらためて書くことではないのかもしれないし、普遍的な言葉をつむぐのが難しい問題でもある。それでも、この「弱さ」について言葉で表現したい気持ちは常にある。

「弱さ」について考えるとき、こんなことを思い出す。

昔の職場で、上司同士がなにかのトラブルで険悪になり、片方の上司がまわりに相手の悪口を言い回った。その上司は発言力のある、いわゆる「声が大きい人」だったため、周囲は悪口を言われている上司を避け始めた。そもそもどっちが悪く、争いの種をまいたのかまではわからない。しかし、客観的に見れば、どう考えても最後は一方的ないじめだったと思う。

ぼくは、相手の上司とも仲が良かったから、いじめには加担せずいつものように接した。大人になってまでも、そんなことをしている人たちを、心底くだらないと思った。信念として、弱い者いじめには、意地でも抗いたかった。だけど、相手に事情を聞いたり、いじめを解決しようとしたり、起こっていることを部門長に報告したりはしなかった。相手の上司は、数か月後に会社を辞めていった。