理性が築いた文明のおかげで、ぼくは存在できている

信念を持っても貫きとおすことができない。理性や知性で判断しても失敗する。すぐ間違う。そして、それを繰り返す。少なくともぼくは、自分が「強いやつ」だとは、どうしても思えないのである。

とはいえ、ぼくは生きている。なんだかんだ言っても社会に溶け込んでいる。たぶん。そういう意味では理性が築いた文明のおかげで、ぼくは存在できているとも言える。たとえこぼれ落ちたとしても、医療や制度、人類が積み重ねてきた知見などがぼくを助けてくれた。でも、それはただ単に運がよかっただけだったのかもしれない。

遠藤周作の長編小説『沈黙』は、江戸時代初期の長崎におけるキリシタン弾圧を描いた作品である。同作には、キチジローという人物が出てくる。キチジローは、弾圧下の日本にポルトガルから来た司祭(パードレ)を、日本の信徒たちに引き合わす役割を担うのだが、役人に脅され、買収されて司祭を裏切る。踏み絵もすぐに踏む。信仰を貫いて殉教できるような「強いやつ」ではまったくない。

しかし印象的なのは、司祭が捕まってからも司祭の前に現れ、最後まで司祭にすがり見届けようとしたのは、ほかでもない裏切り者で臆病なキチジローだったのである。

キチジローとぼくとの差は、「生まれた時代」という運だけ

いよいよ奉行による肉体的、精神的拷問が激しくなってきた頃、司祭が閉じ込められた牢獄の戸口に再びキチジローは現れる。「俺あ、切支丹じゃ、パードレに会わしてくいろお」と叫ぶが、獄吏から気が狂っている者のように扱われ、取り合ってもらえない。キチジローは、「パードレさま。許して下され」と戸口で絶叫して、こう嘆く。

遠藤周作『沈黙』(新潮社)
遠藤周作『沈黙』(新潮社)

「俺は生れつき弱か。心の弱か者には、殉教さえできぬ。どうすればよか。ああ、なぜ、こげん世の中に俺は生れあわせたか」

司祭は眼をつぶりながら、告悔の秘蹟の祈りを唱える。そして、司祭を五島の信徒に引き合わせ、得意になっていたキチジローを思い出し、「迫害の時代でなければあの男も陽気な、おどけた切支丹として一生を送ったにちがいないのだ」と思うのであった。

キチジローのことを考えると、「弱いやつ」の歴史こそが人類の歴史だったのかもしれない、とも思う。自然の脅威にさらされ続け、また、差別や偏見や権力欲がたくさんの血を流した。それでも歩みを進め、多大な犠牲をはらいながらも、徐々に「弱いやつ」が生きられる世の中に変化していった。過ちを繰り返す弱い人類は、現在も同じことを繰り返している。だけど、少なくとも今の日本では、信仰を理由に拷問されたり、殺されたりすることはない。キチジローとぼくとの差は、ただ単に「生まれた時代」という運だけである。

理性は少しずつだが、確実に勝利している。さまざまな戦いや試行錯誤を繰り返して。