46年1月、ハリー・C・ケリー博士が赴任してくるのである。彼は原子力などを研究する物理学者であったことからも明白なように、日本の原爆開発を筆頭とする軍事研究の調査・監視・評価・判定・解体を主任務としていた。

純粋な民生技術以外は潰した

具体的にケリーが手掛けた仕事は、第1に、日本の科学者に各自の研究を毎月報告させ、日本の研究を常時監視し、純粋な民生技術以外は潰した。この報告に嬉々として協力したのが、学術会議会長を務めた茅誠司らの3人の科学者である。彼らは三銃士と称し、誇らしげにケリーに協力した。

第2は軍事研究施設の解体で、東大航空研究所の航空機開発用風洞の解体はその典型である。

第3は、こうして収集・分析した情報を元にした、GHQの科学政策への助言である。

そして、最後がケリーのもっとも大きな仕事となる学術体制の刷新であった。彼は着任早々の46年の春前から東京帝国大学教授であった、先の三銃士と接触し、彼らに科学者が現実の社会問題に貢献し、活動するための民主的な組織をつくるべしと促した。ケリーとこの三銃士を中核とする集団は、科学渉外連絡会を設置し、そこが準備の中核となり、47年8月、内閣臨時機関の学術体制刷新委員会が設置され、ここが学術会議の創設を提言した。

そして、49年に学術会議が創設されるのだが、この一連の流れにケリーは深く関与した。三銃士ら科学者に新組織の理念・方向・あり方を指導したほか、刷新委員会では、所属するGHQ経済科学局を代表して演説を行い、会議がそれに対する答礼の決議をわざわざ行うなど、大きな影響力を発揮した。それは学術会議の第1回選挙の開票・集計作業に立ち会っていることからも明らかである。

そして、発足から間もない50年4月に軍事研究禁止声明を出すのである。その2カ月後、朝鮮戦争が勃発し、GHQの政策は逆コースと呼ばれる、日本の再軍備へと路線を180度転換した。その意味で、学術会議の声明は、GHQによる日本の非軍事化政策の最後の象徴だったのだ。

さて、今日。いまだに学術会議は2015年の新声明でも、この方針を継承している。ケリーの命令を70年も守るという、小野田元少尉も驚愕の墨守である。

しかしながら、今やドローン、3Dプリンター、サイバーと民生技術が軍事技術を上回る時代である。そもそも軍事技術が単独で成り立ちえたのは、人類史上のまばたきのような近代の一時期だけである。

しかも学術会議の姿は、当初ケリーらが目指した、科学者が自由かつ進歩的に現実の社会問題に貢献するという理想像からかけ離れているではないか。事実、ケリーは来日するたびに学術会議の腐敗を悲しみ、嘆いていたという。この機にすべてを見直すべきだ。

(写真=アフロ)
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