日本は昭和63年で定年退職、今は95歳のおじいちゃん

さてここでいったん話を変えてみます。

みなさん、日本が人間だとしたら何歳だとお思いでしょうか?

あくまでも私の仮説です。

新刊『落語はこころの処方箋』(NHK出版)にも書きましたが、「日本の年齢=昭和○○年」ではないかと私は提案します。

昭和元年に、この日本という国が生まれたのだと置き換えると、非常につじつまが合うのです。

そしてさらにくだらない仮説ですが、「軍国主義化=ヤンキー化」と簡略化してみましょう。

他国との関係性を顧みず「自分の美学こそがすべて」と偏狭な価値観を有するという意味ではまさに軍国主義は国単位のヤンキー化でもあります。

16歳で粋がったこの国は、当時日本が地方のヤンキーならば指定暴力団並みの勢力を持つアメリカという国にケンカを吹っ掛けたのが太平洋戦争です。調子のよかったのは最初だけであとはとことん追い詰められ、アメリカは核兵器というヤンキーレベルで言うならば銃を出してきて日本は瀕死の重傷に陥ります。そこでアメリカに謝罪して、その門下に入るのが弱冠20歳=昭和20年のことでした。

そして立派に自動車修理工として更生のキッカケをつかみます。25歳の昭和25年に隣の家での火事があり、その修復に自動車が頻繁に使われることになり、自動車修理工としての需要が高まり一気に潤ってゆきます(「朝鮮戦争」)。

その後はアメリカに支えてもらったこともあり、「高度経済成長」を迎えることになります。48歳の時、働き過ぎから来る体調不良などがありましたが(「オイルショック」)、定年まで勤めあげ、60過ぎにはご褒美というか「老いらくの恋」に花を咲かせることもありました(「バブル崩壊」)。日本は昭和63年で定年退職をしたようなかたちでしょうか。以降、平成、令和という老後を穏やかに過ごす、つまりいま日本は95歳のおじいちゃんともいえるわけです。

以上、強引ですがざっと日本の歴史を振り返りながらこの国が「優こそすべてで劣がダメ」という二元論思考になり、そこから脱却できていない背景を述べてみました。

窮屈な社会を生き抜く際の涙ぐましい作法

さてここで、話を元に戻します。

つまりまとめると「マウンティング」とは、特にこの国においては長年うまく行ってきた構造の根本を表象する言葉でもあり、だからこそ老後95歳の今でも非常に出現しやすい現象なのではないでしょうか?

まして令和の今は、昭和期のように勝ち負けのはっきりした指標が浮かび上がってこないからこそ余計にあらゆるジャンルでマウンティングが浸透し、若い世代のほうもそれに即してより敏感になっているのかもしれません。

さらにはSNSによって促進された情報社会が迫ります。少しでも情報をキャッチすることに遅れると「情弱」などというレッテルが貼られてしまう過酷な環境下で生きざるを得ないのがわれわれなのです。

では、どうすればいいのか?

そんな窮屈な社会を生き抜く際の涙ぐましい作法が、実はあります。

便座に座ってスマホを使用する男性
写真=iStock.com/Jae Young Ju
※写真はイメージです

それが「知ったかぶり」やら「知識のひけらかし」です(ある意味SNSの功と罪の部分でもありますが、「トイレに行くふりをしてググったり、ウィキのコピペをする」などで「知識のひけらかし」がしやすい状況にもなっています)。

つまり「マウンティング」を裏付け、補強する行為が現代の情報化社会においては「知ったかぶり」やら「知識のひけらかし」なのだとも言えるのではないでしょうか。

いやはや、なんだかほんとに窮屈ですよね。そこまでして評価されたいのかなあと。なんとなく「生きづらさ」すら感じませんか?